名文と思えた文章、芸術鑑賞の一つの見本と思えた文章に出会えた。『古寺巡礼 ワイド版岩波文庫』(和辻哲郎著、岩波書店)からの文章で、アジャンター壁画の模写した絵から受けた印象を綴ったものである。
最も忘られないものの一つは、あの一種独特な色調である。色の明るさや濃淡の工合が我々の見なれているものとはひどく違う。恐らくそこに熱国の風物の反映があるのであろう。気温が高くて、しかも極度に乾燥した透明な空気、湿いのない鮮明な色、――それがあの色調を造り出したに相違ない。あれは濡れた感じのまるでない色調である。(p 15〜16)
まず、色調の感想だけでも、このような文章で綴り、さらに詳細な感想を綴っていく。
アジャンター壁画の模写はもう一つ興味のある問題を提出した。あのような画がどうして宗教画として必要であったのであろうか。文芸復興期の宗教画はキリスト教の内部に古代の芸術が復活したものとして説くこともできるし、中世に反抗する人間性の解放として説くこともできるが、アジャンター壁画はどう説明していいであろうか。ことに問題となるのは天人や菩薩として現わされた女の顔や体の描き方、あるいは恋愛の場面などに描かれた蠱惑(こわく)的な女の描き方である。文芸復興期のマドンナは豊かな肉体と優美な顔とをもって描かれているが、しかしそこには、美の権化としてのアフロディテの表現の上に、さらに永遠の処女としての侵し難い清らかさ、救世主の母としての無限の慈愛を現わそうとする努力があり、またあるものはそれを現わし得ている。しかしアジャンター壁画の菩薩には、この清らかさや慈愛を現わそうとする努力がない。また女体に現われた若々しい生の緊張や豊かな生の充溢に注目して、それを――アフロディテの彫刻におけるごとく――理想の姿に描き上げようとする心持ちも認められない。むしろ男性に対して存在する女性を、誘惑の原理としての女性を、――ただそれだけを女体に認める人が、自分の美しいと感ずる部分を強調して描き出したように思われる。(p 19)
下線を引きながら読んでいくと、美術史の素養と語彙の豊かさがあって、これだけの文章になっていることがよくわかる。同時に、感想は、文章にして初めて、しっかりと脳裏に刻まれるのかもしれない、と思えた。これから、どのような作品が紹介されるのか楽しみになってきた。
0 件のコメント:
コメントを投稿