鷲田清一さんによる朝日新聞連載コラム「折々のことば」、2021年8月9日は「貧しい言葉で豊かな明日を語るくらい、人びとをシラケさせるものはない。(天野祐吉)」だった。この言葉を受けて鷲田清一さんは、
昨今の政治家や官僚はほとんどが書き言葉で語る。用意した原稿を読み上げて終わり。伝えたいという熱がこもらない。たまに芝居っけたっぷりに熱く語る例外があっても、「改革」や「安心」という語が呪文のようにまき散らされるだけ。こういう空虚や熱狂を介さずに〈声〉が聞ける政治家の言葉を編集者・コラムニストは求めた。『天野祐吉のCM天気図 傑作選』から。
と、解説している。ところが、この国の総理大臣は”その上”を行った。広島平和記念式典の式辞で、原稿の読み飛ばしを演じてくれたのだ。しかも、その読み飛ばした部分というのが「ヒロシマ、ナガサキが繰り返されてはならない。この決意を胸に、日本は非核三原則を堅持しつつ、核兵器のない世界の実現に向けて力を尽くします」という就任直後の国連総会で菅首相が世界へ発信したとしてスピーチに盛り込んだ部分が含まれていた。ありがたいことに、読み飛ばした部分を丁寧に調べてくれた人がいた。ミュージシャンの後藤正文さんである。後藤さんは続けて、
読み間違いは誰にでもある。日本の立場を世界に示す重要な式典とあれば、緊張しない人は少ないだろう。しかし、自身が国連で発した大事なメッセージの読み飛ばしは重い。
別のニュース配信で観た名古屋市の河村たかし市長の謝罪文の読み上げは、次元の違う酷(ひど)さだった。原稿を読み上げることだけでなく、謝罪すら不本意であるような読み方には絶句するしかない。
失言や放言に続いて、形式だけの謝罪が行われる。国会では、用意された原稿を読み上げるだけの答弁が続く。そうした風景に慣れてしまったことが恐ろしい。厳しく追及するメディアもなく、政治家たちは自身の発言や言葉づかいに緊張する様子もない。(2021年8月11日、朝日新聞コラム「言葉を軽んじているのは」)
と、言葉の軽視を嘆いている。なぜなのか? 私は、政治家に誠実さが欠けているからに違いないと思う。
ここで、最近読んだ『人間みな平等』(住井すゑ著、岩波ブックレット、1994年)のことを思い出した。「憲法は一条でいい」という項目があって、英文学者の寿岳文章さんとの対談の中で「[うそをつくな]とこの一条ですべていい」と発言していたことである。言葉が軽いということは、嘘だ、ということなのだ。やはり、嘘はいけない。
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