2021年6月21日月曜日

起こりうることならいずれは起こる

 ゆっくり、少しずつ読んでいる本、『人生の短さについて』は、まだ読み終えていない。今日は、「だれかに起こりうることは、だれにも起こりうる」という言葉を、「起こりうることならいずれは起こるだろうと備えていないなら、きみは逆境の力に屈してしまう」という言葉と一緒に紹介する。ここれらの言葉を、沖縄やガザ地区での不条理に引き寄せて、考えてしまったからだ。
 遠く離れて所での不条理は、所詮よそ様のこと、関係ないで済まされることが多い。自然災害だってそうだ。多くの人たちにとって、大津波なんて関係ない、起こりっこない、チェルノブイリ原発事故の際も、日本は大丈夫と思い、必要な対策を講じることがなかった。「「どこかに起こりうることは、どこにでも起こりうる」ことを、証明してしまった。だからこそ、沖縄やガザ地区での不条理を我が事のように考えて、その解決に力を尽くすべきなのだ。そう感じた。

 わたしは、評判の悪い作家から引用しても、それが優れたものであれば、決して恥ずかしいとは思わない。プブリリウスもそのひとりだ。彼が、滑稽劇のばかばかしさや、観客におもねる台詞を捨て去るとき、その迫力は、優れた悲劇詩人や喜劇詩人をしのいでいる。
 彼は、喜劇はもとより、悲劇の台詞よりも力強い言葉をたくさん残しているが、その中に、「だれかに起こりうることは、だれにも起こりうる」という言葉がある。この言葉を深く肝に銘じて、毎日たくさん目にしている他人の災いは、みな自分にも容赦なく襲いかかってくるものなのだと用心するなら、そのひとは、襲われるはるか以前に、武装を整えることだろう。危険がやってきてから、心が危険に耐える準備をはじめても、手遅れなのだ。(「心の平静について」『人生の短さについて』、中澤務訳、光文社古典新訳文庫)

 ものごとは、上へ下へと変転している。それなのに、起こりうることならいずれは起こるだろうと備えていないなら、きみは逆境の力に屈してしまう。しかし、その姿を先んじて捉えるなら、だれでも逆境を打ち砕くことができるのだ。(上同)

 ここを読んだときは、核戦争のことを「起こりうること」として考えてしまった。間違っているだろうか。多くの科学者がこれまで警鐘を発してきているのだから、ここは謙虚に耳を傾けて、どうすればいいかを考えていくことが重要であろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿