アリストテレスの芸術論が、21世紀の現代社会にも通用する普遍性を持っていることを学びました。「芸術は、日常世界の単なる『現実を凌駕』して、その世界の内なる普遍的本質に達し、その本質を典型的なものとして物化する」と次のように解説されていたのです。
芸術は、アリストテレスによれば、このようにして、日常世界の内に雑多な形で生起している様々な偶然事や夾雑事等も含まれたその世界の「一切」をそのまま語ることなく、それらの偶然的なものや夾雑的なものを捨象することによって、日常世界の内奥の本質的な相を浮かび上がらせるのです。普遍性の次元に入り込むことによって、芸術は、世界の内在的な本質に達するのであり、その本質の次元における「偶然」的でない関係即ち必然的ないし蓋然的な関係――をもった一連の出来事を作品化するのです。芸術が、「現実を凌駕」するのは、まさしくこのようにしてなのです。芸術は、日常世界の単なる「現実を凌駕」して、その世界の内なる普遍的本質に達し、その本質を典型的なものとして物化するのです。これがアリストテレスのいうミーメーシスです。ゼウクシスの場合でいうならば、ゼウクシスは、いかに美しい女性であっても、現実に生きて呼吸している一人の美女の「一切」をそのまま模写することをせずに、多くの美女からの選択合成を行うことによって、女性美の本質的な相に達し、その女性美の普遍的本質の典型を、一人の人間としては「実際にはありえない」美女像として物化したのです。アリストテレス美学理論において、ミーメーシスとは、このような普遍的本質のミーメーシスなのであり、このような典型のミーメーシスなのです。それは、単なるものの表面をそのままに模写するような平板な意味での写実では全くなく、世界の内在的な本質を典型的に物化することなのです。(『西洋芸術の歴史と理論』、青山昌文著、放送大学教育振興会,、2016、p69〜70、下線は引用者)それでは、「本質を典型的なものとして物化する」とは、どういうことでしょうか。
その実例として放送授業で、ギリシャ国立博物館に展示されている作品「ポリュクセネーの墓碑」と、原田泰治さんの作品を紹介します。
作品「ポリュクセネーの墓碑」は、死者と一緒に生者も彫られている点で珍しいもので、死者の”最も典型的で本質的な子に対する愛情”という面が作品として物化され、表現されています。それゆえ、年月を超えて作品から伝わってくるものがあるのです。
原田泰治さんの作品は、田舎の風景が多くて、人物の多くは小さく描かれています。しかも、目鼻などは描かれていません。それでも、海外で個展を開いたら、
アメリカ人が「自分のふるさとにそっくりだ」って言うんですよね。かやぶきでしょこっちは、それから黒い髪の毛でしょ、目鼻はないでしょ。
そうしたら、そうじゃないって、家は違ってもね「ここに描かれている人物は私だ」って言うんですよね。(「NHK映像ファイル あの人に会いたい アンコール 原田泰治(画家)」、2024年3月/2日放送)
というのです。これこそ、原田さんの作品が”普遍性”を持っていることの証明です。原田さんお芸術作品も「本質が典型的なものとして物化」されていたのです。



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