理解するということは、体験に根ざして初めて可能であるようです。ニーチェの指摘で、気付かされたことです。ニーチェは言います。
私の『ツァラトゥストラ』の一語も理解できないと率直に訴えた(「訴えられた」のミス?)とき、私は彼に言った。それは当然だ、あの中の六つの句を理解したら、というのはつまり、体験(原文は傍点)したら、それは「近代」人が到達しえないような、もっと高い人間の段階に高めるだろう、と。(「この人を見よ」『世界文学体系・42』、ニーチェ著、筑摩書房、p378)
ニーチェにとっての理解というのは、体験を通して体得することでした。私は、このところを読んだとき、数学書を学ぶときに自分で計算してみることが欠かせないことと、次の中側さんの言葉を思い出しました。
わが身に悲しみの用意ありて、人の悲しみを受くるなり。そういえば、同じ本でも、時が経って再読すると、新たな発見や気づきを得ることがあります。この理由も、新たな体験によって心もアップデートしているから、と考えれば納得がいきます。
画も亦如斯
一つの画が人に迫るのは、観者の用意に向かって画がはたらきかけるなり。観者の用意なくば神品も凡品の如し。(「神品も凡品」『中川一政全集』p211より)
しかし、全てが体験なしに理解できないか、と問われれば、そうではないです。想像力によってカバーできる面もあるからです。
それと同時に、古典と言われているもの、あるいは、科学的な著作には、普遍性のある概念が含まれているからです。古代ギリシャの哲学が体験的には理解できない面があったとしても、現代社会の人にも理解できるとことがあるのも、普遍性があるためです。
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