事件があったのが1949年8月17日で、1950年12月6日に行われた一審では、五人が死刑、二人が無期懲役など、十七人が有罪の判決でした。その日の法廷の様子は次のような”異様な雰囲気”だったようです。
一二月六日、早朝から福島地裁は二〇〇人の武装警察隊で包囲されていた。判決公判(第九五回公判)は冒頭から大荒れであった。判決はまず、主文において各被告に対する量刑を宣告し、ただちに理由の朗読に移った。しかし、長尾裁判長は判決文を読んでいるはずなのに、それは検事論告とまったく同じもののようにきこえた。被告たちは、狐につままれたような顔になった。大塚弁護人は、被告が紙片に書いてまわしてきた質問にこたえて「検事論告を読みあげてから、それに対する判断に入るのだろう」と書いて返事したくらいだった。それでも、おかしい。⋯⋯
(中略)
この日の判決は、判決言い渡しの朗読の途中で読み方がわからなくなって合議するというような前代未聞の状況の中で、下されたということが特筆される。そればかりか、弁護団は即日控訴し、判決謄本の請求を行ったが、二週間後に催促に行った時点でも判決原本を裁判官が書き続けていたという。五人の被告への死刑判決は、未完成の草稿で言い渡されたことになる。(『松川裁判から、いま何を学ぶか』、伊部正之著、岩波書店 、2009年、p80〜81)
ところが、このように五人もの死刑判決を下した長尾裁判長でしたが、なんと長尾裁判長は、名古屋高裁に栄転はしたものの、「転任しても全く出勤せずに、神経衰弱が昂じて・・・神経精神科に入院するハメに」なってしまったというのです。伊部正之氏は「不明朗な判決や栄転が心の負担になったのか」と書いていますが、何よりも、冤罪で五人もの死刑判決下したこと自体が大きな心の負担だったに違いありません。このこと一つとっても、松川事件は恐ろしい事件です。
ところで、すでに見たように、一審の裁判長は長尾信であった。長尾は裁判所の給仕から裁判官に任用された、いわばノン・キャリアの地方裁判官であった。にもかかわらず、一審で有罪判決を下した後、長尾は欠員のない名古屋高裁判事にすぐに栄転するという破格の処遇を受けた。しかし、長尾は不明朗な判決や栄転が心の負担になったのか、名古屋高裁に転任しても全く出勤せずに、神経衰弱が昂じて、四月一四日に名古屋大学医学部附属病院の神経精神科に入院するハメになった。(上同、p84)
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