2024年8月9日金曜日

”生ききる”こと

 野口晴哉『偶感集』に「全生」という詩があります。その詩を抜粋し、句点と読点を入れて編集し「生ききること」という詩にしました。この詩を読んで、前にわからなかったところがわかりました。
 実は前に、似たような内容の文章を読んでいたのですが、よく理解できなかったのです。それが、「大なるは大の役あれど、小なるは小なる役あって、その存在の意義を全うするものだ。象の百年生くるも全生なら、蝉の一夏の生涯も又全生なのだ。大と小と対立させてその価値に拘泥するのは、人間的な有限感覚に基いているに他ならぬ。人間の五十年は蚊の一夏に比して長いとは言えぬ。欅の三千年の寿命も猫の十年に等しい。全は、全だ」(『碧巌ところどころ』、野口晴哉著、全生社、1981年、p3)です。「人間の五十年は蚊の一夏に比して長いとは言えぬ。欅の三千年の寿命も猫の十年に等しい。全は、全だ」などと言われても、禅問答を聞いているようで、ついていけなかったのです。
 それが、「全生とは数学によって得るものに非ず、/その生を”生きること”に全生はある也」とか、「人間の全生時の長さに非ず、/その一日を”生ききる”ことに全生はある也」と言われ、初めて、「全生」なるものの価値を理解することができました。
 それから「力は使うことによって増す也」ということは、生理学を熟知しているからこそ体得した真理に違いないと思えたことでした。全てにおいて言えることで、人生を倍化させる秘法でもあると嬉しくなってしまいました。

”生ききる”こと

七十歳になったから全生したとか、
八十歳だから全生したとか、
四十歳で死んだから全生しなかったとか 、
天文学的執着によって全生を解す可からず。
全生とは数学によって得るものに非ず、
その生を”生きること”に全生はある也。

全生に生ききるとは、自ら生くる也。
他に依って生かされ、息している人は、
いつになっても全生しているに非ず。
蝶が一夏で死し、猫が二十年で死し、
松が千年で枯れても、
等しく全生したる也 。
人間の全生時の長さに非ず、
その一日を”生ききる”ことに全生はある也。

力は使うことによって増す也。
力を使うこと惜しむ人、全生の道を知らず、
十のこと為すに五の力にて為すより、
五十の力をもって為すこと、全生の道也
成否の問題に非ず、
ただより多くの力を費やして生くる可し。
費やして減ることなきを知る者、
いつも活き活き生くるを得、
斯くの如きを全生という也。
(「『偶感集』、野口晴哉著、全生社、1986年、p95〜97」より抜粋編集)

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