2024年8月28日水曜日

「倚りかからず」への疑問

 茨木のり子詩には、天皇制を批判した詩「天皇発言への憤りを込めた作品」や「昭和天皇の[戦争責任]記者会見」)などがあって注目してきました。そんなこともあって、たまたま図書館で手にした『茨木のり子詩集』のなかに「倚りかからず」を見つけて読みました。
 はじめは、両手をあげて共感した詩でしたのに、本当にそれでいいのだろうか、と疑問が湧いてしまいました。時には”倚りかかってもいい”し、”倚りかかることも必要”ではないか、と思ったのです。
 具体的には、ある思想を主張する時、先人の文献からの引用は欠かせません。科学の進歩も、先人の業績の上に積み上げられたものです。そのような時、先人の思想や学問に倚りかかっているのではないか、と思ったのです。
 ここではっきりしてきた疑問点は、文献からの引用は”倚りかかっている”と言えるか、ということと、倚りかかりたくない”できあいの思想”と、引用などを通して”倚りかかりたい思想”があるのだろうか、ということです。
 果たして、この詩には、どんな思いが込められているのでしょうか。

倚りかからず

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだ
(『茨木のり子詩集』、谷川俊太郎選、岩波文庫、2014年、p244~245)

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