例えば、
為政者が真剣に憲法第九条を理想としてえがくのであれば、そこに含まれた平和国家の構想を、みずから進んで提示すべきである。たとえ現実に邪魔されてその平和国家構想の実現が遠い将来のことであるとしても、人類の共通のねがいである恒久平和の一礎石となるような平和国家の構想は、それじたい、日本国民の全部が結束して推進することに生きがいを感じる理想であるにちがいなく、率先し結束してこの理想の実現にはげんでいる日本国民には、犯しがたい道徳的な力があるはずだと私は信じている。(都留重人著「憲法第九条と日本の安全保障」『世界』、1963年1月、p 20、下線は引用者)そして、「日本の中立化が成功するためには、当然のことながら、その構想を積極的にもった政党が政権につき、その構想と密接に関連した社会改造の仕事が意慾的に進められていて、国民の大部分がその政権を支持しているばあいである」と、政党が先頭になって「平和国家の構想を提示すべき」である、政党の重要性にまで言及しています。考えてみたら、議会制民主主義の国として、当然のことでした。
日本の中立化が成功するためには、当然のことながら、その構想を積極的にもった政党が政権につき、その構想と密接に関連した社会改造の仕事が意慾的に進められていて、国民の大部分がその政権を支持しているばあいである。平和運動そのものは、常にあるところの永久運動であるかもしれないが、それが或る時点において権力闘争と結びつくことは避けられないのだ。笠信太郎氏は「いま武力らしい武力をもたない日本ですから、その日本を守るものは、要するに他国がこれを軽んじることのできないような精神の落着きといった大きな力ではないでしょうか」(『朝日ジャーナル』一九六二年五月六日号)と語ったが、この「精神の落着き」こそは、第九条の精神を中心に、自主的な平和的文化国家を建設するという理想を、国民が一致して自らのものとすることから生れるというべきではないだろうか。やりがいのある社会改造の建設的具体案をもたぬものや、社会改造によって自らの専有既得権益を失うものだけが、いたずらに武力による侵略をおそれるのだ、と私は思う。(上同、p23、下線は引用者)
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