今、「中国とどう向き合うべきか」という課題は、極めて今日的なものである。これから紹介する文章は、2008年に書かれたものだが、決して古びてはいない。それどころか、中国と向き合おうとするときの前提として、「先の大戦について、日本はしっかり反省して問題を処理すべきである。東アジアとしての歴史認識の共通化を目的に、期限を切り徹底的に歴史認識の統一を進める作業も必要である」という指摘は、ますます重要な課題になってきているといえよう。なぜなら、政府の対応が20年前よりも、中国や北朝鮮との対決姿勢を鮮明にしてきているからである。
もちろん、朝鮮にどう向き合うべきか、も、中国の場合と同じで、「歴史認識の共通化」を進めることを抜きにしては、東アジアの平和は決して望めない。今こそ、「文化の根底から発想」した「東アジア共同体構想」を作り上げる必要がある。中国語(漢字文明)は宗教からは自由だが、あまりにも政治的な言語であり、それは現実の中国のありようと重なって見える。その中国を一つの極として世界が動くとき、日本の独自な役割とは何か。
思えばあまりにも苛烈な中国の政治的抗争に破れ、それを嫌った者たちが集まって作ったとも考えられるのが日本である。もう政治は嫌だ、政治の延長たる戦争も嫌だと集まった者たちが作った国なのだ。そういう歴史から言えば、戦争はしない、軍備は持たない、国の交戦権は認めないとする日本国憲法の前文と第九条とは極めてこの国にふさわしい。
この憲法を押しつけ憲法だという論もあるが、人類史的に見れば、日本国憲法の前文と第九条は、もっとも良質な西欧思想の日本への「亡命」である。第二次大戦敗戦後、世界と人類の一つの希望を我々日本人は歴史から託されているといってもよい。
ただし、日本がこのような役割を果たすには、東アジアの諸国民の間に横たわる感情的齟齬を克服しなければならない。先の大戦について、日本はしっかり反省して問題を処理すべきである。東アジアとしての歴史認識の共通化を目的に、期限を切り徹底的に歴史認識の統一を進める作業も必要である。もちろん、認識が違う部分も残ろうが、そのような共同作業の先に、漢字文明を共通の基盤としつつも、異なった文化を有する国(地方)からなる和解した一つの東アジア地域が出現するだろう。主に経済的観点からばかり語られる東アジア共同体構想は、文化の根底から発想することが必要なのだ。(「いま、中国とどう向き合うか —— 新著を脱稿して」『石川九楊著作集 別卷3』、石川九楊著、ミネルヴァ書房、2017年、p463-464。下線は引用者による)
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