2022年6月27日月曜日

「聖なる時間」と「永遠(悠久)の時間」

 気になっている文章がある。文中の「永遠の時間、悠久の時間」に関心を持ってるからだ。「近視眼的な合理主義化の風潮により、見栄や外聞にこだわって貴重なものが数多く失われていく」ものが沖縄にはあり、それは、「信仰心を成り立たせている聖なる時間」だと、次のように書かれている。
 本土とくに東京などにいては感じとしてつかめない南の国々との深いつながりを示しているように思われた。
 これも沖縄本島にいたときよりは先島諸島に行って沖縄全体をふりかえっていっそうはっきりそれと気がついたのだが、沖縄の自然と生活のなかに永遠の時間、悠久の時間のつよい支配があるのは、ほとんど至るところにオガンジュ(礼拝所)を見出し、聖なる時間、垂直の時間をよみがえらせる人々のあつい信仰心のゆえであろう。こういうあつい信仰心は、しばしば現実からの逃避や迷信とも結びつくから、とくに若い世代の人々にとってはみとめがたいにちがいない。けれども、近視眼的な合理主義化の風潮により、見栄や外聞にこだわって貴重なものが数多く失われていくなかで、そういう信仰心を成り立たせている聖なる時間が現代文明のなかで生きる者にとっても無用でないかどうか、問いなおす必要があるだろう。〈高度成長〉と〈日本列島改造〉によって本土が失ったものは、つまりはこの聖なる時間であるといってもいいし、またこの時間は、私たちの生が現代生活の惰性のなかで流されがちであるとき、自分をとりもどす有力な手がかりにもなるだろう。(『考える愉しみ』、中村雄二郎著、青土社、p74)
 この文章から、「聖なる時間」が「永遠の時間、悠久の時間」に通じる、と読み取れるのだが、信仰心がないので、「聖なる時間」とか「永遠の時間、悠久の時間」というものを関心があるにもかかわらず、理解できないのだ。
 しかし、信仰心がなくても、「画業を極める」などというとき、「聖なる時間」とか「永遠の時間、悠久の時間」というものに通じるのではないか、と思えるようになった。同時に、神の存在を認めなくても、大自然の大きな力のようなものを信仰し敬うことで、謙虚になれる、そのような意味での信仰心はあってもいいではないか、いや、そうした信仰心は人間には必要ではないか、と思うようになった。

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