ここで特筆するとすれば、大日本帝国憲法下にあってさえ、憲法を守りさえすれば、民主主義社会も実現すると言っている点だ。美濃部達吉の憲法観よりも、一歩進んでいる感がある。何よりも国家観が違う。美濃部達吉は国体を重んじていたと記憶しているが、鈴木天眼にはそうした思想は持っていないからだ。(なお、ここはあくまでもそんな感じがするという段階である)
国家主義を否定した天眼は、個人と国家の関係をどのように考えていたのか。もちろん天眼が考える国家は、「国家のみ有って人民無き」国家ではなく、「自己存在を自覚せる人民」に支えられた国家でなくてはならない。それは夢想の中にのみ存在する理想の国家であろうか。いや、そんなことはない。それは、 ほかでもない、大日本帝国憲法が「かくあるべし」と日本国民に指し示している国家の姿だ。憲法を守りさえすれば、その国家はすぐにでも実現するのだ。憲法が守られず、骨抜きにされているが故に、当然あるべき国家が、あたかも夢想の世界の国家のように国民から遠ざけられてしまっているのだ。その論理を天眼は次のようにまとめている(1914年5月2日)。先ず、「生命は無限目つ無量の寿にして初めて生命である」と書き起こし、何らかの制限を受けた生命というものは「生命本地ではない」と言う。「道義の生命も亦斯くの如し。人間本有の良心ー気魄―直観の霊知力を基礎として、外的事物に応接し、『我は之を是とす』『我は之を非とす』といふ其『我は』が原力的に発動無限なることを得て初めて道義の生命は不朽なり得るもので。『我は』の知行一致が則ち『個性』である」
その個性と国家はいかなる関係か。「個性が国家といふ団体組織の内質に確認され、其存立
の自由を法治的に保障する所以のものが則ち憲法本質である」
国家の中に於ける個性、則ち個人の自由を保障するのが憲法だ。国家は憲法に命じられて個人の自由を保障する義務がある。それが国家と個人の最も基本的な関係だ。(『東洋日の出新聞 鈴木天眼 アジア主義もう一つの軌跡』、高橋信雄著、長崎新聞社、2019年、p323、強調は引用者による)
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