放送大学2学期の面接授業で、「十九世紀の万国博覧会と美術史」の授業を受けることにした。その参考書として指定された本が『万国博覧会の二十世紀』(海野弘著、平凡社)だった。この本を読んで、「つかの間の人民戦線時代」に、「大衆にとっての生活が、ほんの少しよくなった。人民戦線がかもし出した雰囲気」(p 132)というのがあったことを知った。少し長く引用すると、
つかの間の人民戦線時代
一九三七年のパリ博は、人民戦線というつかの間の左翼連合の中で開かれた博覧会である。一九三一年の植民地博が右寄りであったとすれば、こちらはやや左寄りであった。このパリ博は、人民戦線について触れずには語れない。
分裂と対立をつづけていた左翼は、社会党と共産党を中心に諸派を統一して、人民戦線を結集した。しかしそれはあまりにも右翼勢力が強まり、フランスにもファシズム政権が成立しそうだったからであった。
一九三三年、ヒトラーが政権を握った。フランスでは一九三四年、右翼と左翼の衝突が激発した。その危機に対して左翼が連合し、<人民戦線>を結成したのは一九三五年七月十四日であった。「ファシズムの政権に対抗し、自由を守る勢力」としてまとまることになった。
一九三六年五月三日の選挙で人民戦線は勝利し、レオン・ブルムを首相とする人民戦線内関が出発する。しかし経済政策はうまくいかず、左翼諸派は再び分裂した。(p130)
「束の間の人民戦線時代、さらにひとつの功績が人間性の分野であった。大衆にとっての生活が、ほんの少しよくなった。人民戦線がかもし出した雰囲気のなかには、作家、哲学者、歴史家が、左翼政治家とともに、あとになって顧みて、一九三六年精神と呼んだ、なにものかがあった。貧乏人にとってはそれが解放感だった。彼らはこれでついに国民の生活に参与できると感じた。彼らはその願望を分かち持ち、そのいくつかを達成しようと努力する議会と政府の選出に力を貸したと感じていた。」(ウィリアム・L・シャイラー『フランス第三共和制の興亡1940年 = フランス没落の探究』井上勇訳、東京創元社、一九七一)(p132)
ここでいうところの「一九三六年精神」と似たところが、戦後の日本にもあった。戦後の回想記などに書かれたものを読むと、それがわかる。
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