2020年10月28日水曜日

何を「語ったか」でなく「してきたか」

  DVD『映像の世紀・8・恐怖の中の均衡』を観て、米軍が、度重なる核実験をしただけでなく、多くの兵士が核戦争を想定した実践演習を挙行していたことを知った。当然、多くの兵士が被爆し、その後遺症で苦しむことになった。こうした事実を知って、政党や米軍を観るときの視点として、「何を語ったか」でなく、「何をしてきたか」を重視する、次の丸山眞男の視点を思い出した。
 自国の兵士を被爆覚悟の演習を命令できる国、昨日書いた記事のように、輸出代金を受け取りながら、一向に納品しないで済ませてしまう国(納品されなくても、物を言えない国も国だが、・・)に、いつまでも従属していていいのだろうか。いいはずがない。明治の独立に対する気概は、どこに行ってしまったのだろう。

 しからば孫文主義の内からの理解とは何か。私はそれはなにより孫文自身の問題意識を把握することだと思う。孫文は何を語ったか若くは何を書いたかではなくして、彼が一生を通じて何を問題とし続けたかということである、彼が現実を如何に観たかということよりむしろ、彼は如何なる問題で以って現実に立ち向かったかという事である。ラインバージャーのいわゆる、「多くの点で矛盾だらけの癖に、全体としては恐ろしく首尾一貫している」という三民主義の秘密はこうした把握によって始めて開かれる。そのとき彼の個々の言説の「矛盾」はもはや矛盾ではなく統一的な展望の下に立ち、外面からは孫文の途方もない「空想」としか思われない事が実は彼にとって抜差ならぬ切実な課題であった所以が理解されるのである。(『丸山眞男(KAWADE道の手帖) 没後10年、民主主義の〈神話〉を超えて』、河出書房新社、p135、強調は引用者による)

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