2024年7月6日土曜日

寛容のキリスト教

 キリスト教には、正当な教えと、そうでない、異端の教えがあるようです。正当な教えは、「異教徒にも慈しみの心をもって」接するように、寛容の精神があり、人類の理想が語られていること(注1)がわかりました。エラスムスが『平和への訴え』のような優れた著書を刊行できたのも、「聖書に返れと主張」(注2)し、人類(キリスト)の理想を追求したからだったのです。
 ミケランジェロが優れた天井画を描けたエネルギーも、ミケランジェロがイエスの目指した本物の教えに、大きな使命に感動し、突き動かされたからに違いありません。偶然にも、羽仁もと子全集の中に、人類の理想としてのキリストに言及したコラムを読んだばかりです。羽仁もと子も、ミケランジェロやエラスムスと同じ範疇の新人類、本物のイエスの使徒だったのです。

(注1)エジーディオが第五回ラテラーノ公会議開催に際して声を大にして語った、キリスト者に課せられた使命こそは、神の慈悲に倣い、異教徒にも慈しみの心をもって接し、信仰と祈りによって聖(きよ)く生きることであった。
 ローマ教会に属する人々が、たとえ自分にとって不都合に思えることがあったとしても、『聖書』を自由に解釈したり教義や伝承に変更を加えたりするのではなく、正統な教えを護り、それを広く世界に伝え、しかも一人ひとりが神に立ち帰る―一回心する――ことの重要性を理解して、神の憐れみと慈しみにも似た心をもつならば、ローマは新しいエルサレムとなり、そこにはあらゆる宗教、あらゆる階層と年齢の男女が、人類の大集会を実現するために全世界から集い、神の祝福を受けることができるであろう。ローマを地上の聖なるエルサレムとしよう、と呼びかけるエジーディオの力強いことばを、ミケランジェロは深く黙想して構想を練り、絵筆に託したに違いない。
 そしてそのことを明確に示すために新たに画像を構想し直したことが、予定より大幅に遅れて天井画が完成をみた原因であったと推測されるのである。(『システィーナ礼拝堂天井画 本篇 イメージとなった神の慈悲』、若山映子著、東北大学出版会、2005年、p58〜59)
(注2)思想的にも,理性尊重の立場から自由な人間性を強調し,聖書に返れと主張。神のもとに人間の自由な意志を否定するルターとは対立した。「意志自由論」1524。(『コンサイス外国人名事典 第3版』、三省堂編修所編、相田重夫ほか監修、三省堂、1999年)

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