2024年7月19日金曜日

なぜ、カントを学びたいか?

 また、カント熱が再燃してしまいました。木原武一氏自身が『純粋理性批判』を再読して、「精神的に生まれ変わった」(『哲学からのメッセージ』、新潮選書、p12)こと、ショーペンハウェルも「カントの教説は、それを理解したいかなる人の頭脳の中にも、精神的に生まれ変わったとみなされていいほどの大きな、抜本的な変化を引き起こす」という言葉を残していたことを知ったからです。実は、前にも『純粋理性批判』を読みたいと思ったことがあって、次のような「カントを学ぶということ」という文章を書いていたのです。

 子どもが成長の過程で、世界に対する知見を広げていく。そのときにもっとも重要な役割をはたすのが語彙の広がりである。新しい世界の扉を開く手がかりが、その世界の語彙なのである。このことは、カントを学ぶ際も、あるいはヘーゲルを学ぶ際にも言える。哲学者は、新しい語彙を創造しながら、新しい世界を創造したのである。
 木原武一によると、<すべての哲学はカントという「水源」の流れをくみ、カントの色に染められている。・・中略・・かれは「哲学の水源」というより、むしろ、「哲学の海」というべきかもしれない>(『哲学からのメッセージ』、新潮選書、p13)という。カントの著作(『純粋理性批判』)には、相当の新しい語彙(概念)が含まれているようだ。ヘーゲルの著作も似たようなものなのだろう。それゆえ、カントもヘーゲルも難しいとされているに違いない。
 そうすると、カントやヘーゲル攻略の道筋も見えてくる。彼らによって発見され創造された語彙、あるいは概念というものを一つ一つ自分のものにすることである。その過程で、新しい世界の扉を開くこと、これこそがカントやヘーゲルを学ぶということに他ならない。
 しかし、もし、本当にカントが「哲学の海」ならば、全ての語彙を我が物にすることは不可能ということになる。それでも、カントを理解したということになるのだろうか。つまり、自分に理解でき、自分に共鳴するものだけを取り出しただけでも、カントを学び、カントを理解したということになるのだろうか。それから、カントを学ばなくても、ヘーゲルを理解することができるのだろうか。このような疑問を解決するためにも、哲学登山に挑戦したいものである。2010年12月28日火曜日

 哲学登山とは、よく考えたものです。しかし、前回は、あまりにも険しかったからか、他に目移りしてしまったのか、リタイヤしてしまいました。この年(76歳)になって、登頂できるかどうかわかりませんが、高齢で世界最高峰エベレストに3度、登頂したプロスキーヤー三浦雄一郎さんのことを思えば、負けてはおれません。三浦さんが高い山に挑戦したように、しっかり準備して『純粋理性批判』という山に登頂を目指していきたいです。

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