類は類を呼ぶ、と言いますが、中国にも同じような友人がいて「願書万本誦万遍」という落款を押していることに感動し、「願わくば、万の本を書き、万遍読まん」と書画に書いています。
富岡鉄斎のことをもっと知りたくなって見つけた本から、「人格で絵を描くのだ。人格を磨かなければ、描いた絵は三文の価値もない」と語ったという富岡鉄斎の人となりがわかる文章を引用しておきます。
先生の芸術は、実に先生の人格に基づく。これ先生の画が余人と異なり、卓越した所以であって、・・・精神的な発露によれる偉大な芸術で、堂々たる高士、君子人の画ともいうべく、万巻の書を読破した学者の絵であって、即ち真の文人画である。
(中略)
なお、ここに特筆すべきは、先生の画中に包蔵される内容である。・・・ただ漫然と筆を下すのではなく、単なる鑑賞の為ばかりでなくして、多くの意を寓して、世を警醒し、人を戒め、蒙を開き、深い意義の込められていうものが多いことである。その寓意は最もその題賛に表されている。(藤懸静也著「鉄斎先生の芸術」『百錬富岡鉄斎筆近古賢哲像伝絵』、内藤民治編、耕心学堂、昭和19年)
彼の仕事は不思議に全人的である。だから、僕たちが見ても、心の一部分だけが喜ばされるのではなく、全人格的な力で我らを感動させるのである。
つまり鉄斎は画家である前に人間である。優れた画家である前に優れた人間であった。彼はどんな仕事をする時でも、手先だけの仕事はしなかった 彼は学問を好み、 自分の生命に役に立つものは、何事にもよらず摂取することを心がけ、またそうしないではおさまらない性質だった。 自分でも、自分を画家であると言われることを好まず、学者であると言われることを好んでいた。画をかくためにも本を読んだであろう。しかしそれ以上、自分の生命を本当に生かすために本を読んだ。そこが当時の他の画家とちがうところである。(武者小路実篤著「世界性のある日本画」『百錬富岡鉄斎筆近古賢哲像伝絵』、内藤民治編、耕心学堂、昭和19年)

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