こうして金子家で世間並みのまともな生活がはじまった頃、日本の社会は正気を失い、戦争へと向って行った。海外放浪の旅から帰国した昭和七年には五・一五事件、翌年には京大滝川教授事件、昭和十年、美濃部達吉の天皇機関說事件、十一年、二・二六事件、そして、十二年に日中戦争がはじまり、国家総動員法が成立し、全国各地に警防団がつくられ、十五年には、日独伊三国軍事同盟が結成され、国民服が制定され、大政翼賛会がつくられ、昭和十六年の太平洋戦争の開始となる。金子光晴の言うようにまさに「一たまりもなく傾斜をなだれてゆく集団的な暴走」(「よごれていない一日」の一節)である。
この一連の流れ、過程としての歴史を知ったとき、戦後史の流れというのも、このように捉えてみたいと思いました。
実は、この前に世界恐慌の歴史があり、その歴史過程を、「テロリズムの嵐」という題で表現されていました。この世界恐慌の嵐の影響もあって、日本では「一たまりもなく傾斜をなだれてゆく集団的な暴走」が始まったようですが、日本における「集団的な暴走」も「テロリズムの嵐」そのものでした。二度とこのような嵐はごめん被りたいものです。
一九二九年(昭和四年)の十月二十四日、木曜日。とつぜんウォール街で株価の大暴落が始まった。アメリカは大好況の波にのって、国民はガラが起きるとは、誰ひとり予想もしていなかった。
むしろ、大統領のフーヴァーが、「アメリカはここ数年のうちに、どこの家庭のキッチンにも、いつも二羽の鶏が用意されてあり、ガレージには二台の自動車があるという生活が、ごくあたりまえになるだろう」と、アメリカの永遠の繁栄を約束した言葉を信じていた。
天災は忘れたころにやって来る、という警句があるが、経済恐慌もそれと同じで、ある日、とつぜん予期しないときに起きる怪物である。
この怪物はアメリカ国民の夢を崩壊し、千五百万の失業者を出しただけではなく、またたく間のうちに、ヨーロッパに上陸した。嵐はその後、四年の間、全世界を荒れ狂うことになる。
そのころ、日本では、問題の多かった前総理大臣の政友会総裁田中義一が九月二十九日に急死し、後釜に犬義毅がかつぎ出された。新総裁掘戴の政友会臨時大会が十月十二日、党本部で行なわれ、信州の富士見高原で悠々自適の生活を送っていた犬養は、どうした心境の変化があってか、世間の予想を裏切って再び政界に戻る結果になった。(『犬養毅 : 血の日曜日』、吉岡達夫著、人物往来社、1968年、p5~6)
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