2024年5月24日金曜日

ニーチェ思想の本質

 ニーチェの思想に惹かれながら、その本質はまだよくわかっていません。「ニーチェによる理想的な人間像」で、「あらゆる虚妄や束縛から解放され、個性を開花し、自分自身を完全に制御できる人間、何よりも”自己を律する力のある人間”を理想像として描きました、そこにこそ、ニーチェ思想の本質があると考えたからです。
 しかし、次の文を読んでニーチェ思想のより本質的な面が見えてきたように感じました。下線部分にネガティブ・ケイパビリティとの関係性が見えたからです。「人間苦」という問題を避けることなく、「そこに生甲斐を見出そうとする」ということは、「今すぐに解決できなくても、何とか持ちこたえていく、それはひとつの大きな[ネガティブ・ケイパビリティという]能力」(『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』、帚木蓬生著、朝日新聞出版、2017年、p194、[ ]内は引用者)そのものに見えたのです。『ツァラトゥストラー』そのものに、ネガティブ・ケイパビリティという概念がどのように描かれているか興味のあるところです。
 もともと永劫回帰思想は、ヤスパースが指摘しているように、キリスト教と紙一重の差であり、しかもその差が両者の決定的対立をなすのである。つまり人間の苦痛という解釈される客観的事実は全く同一なのであるが、キリスト教は神の恩寵にすがって救済されるという超越的方向において、他方永劫回帰は、苦痛そのものに徹することにおいて肯定に至るという内在的方向において、人間苦を克服乃至転換しようとするのである
 ワーグネルの『パルジファル』は、純潔無垢の愚者が同情によって悟りの境地に入り、これによって人間界に救済をもたらすという、キリスト教的仏教的色彩のきわめて濃厚な楽劇であり、「これが人生か、よし、今一度」と、人間苦の現実に直面しながらも、むしろそこに生甲斐を見出そうとする『ツァラトゥストラー』とは、絶対に相容れない性質のものであった。(『人間ニーチェ』、秋山秀夫著、社会思想社、1953年、p66、下線は引用者)

0 件のコメント:

コメントを投稿