一つは,この書の鉱脈とも言えるもので、「カントは、この書を生み出す過程の思索で人間性の回復を求めた」ということです。カントはルソーの『エミール』を読んで人間学に目覚めたようで、その辺のことを次のように述べています。
私は傾向性からしても探求者である。私は認識への全き渇望と、認識においてさらに進みたいという落ち着きのない好奇心と、またあらゆる認識の獲得に対して満足を感じている。これだけが人間の栄誉をなしうるのだと私が信じ、何も知らない俗衆を軽蔑していた時代があった。ルソーが私を正道に戻してくれた。この優越の欺きは消え、私は人間を尊敬することを学ぶ、そして、もしこの考察だけが他のすべての考察に、人間性の権利を作り出すという価値をを与えることができるのだと私が信じなかったならば、私は自分を俗な労働者よりもっと役立たずと見なすことだろう。(「『美と崇高の感情にかんする観察』への覚え書き』」『カント全集18巻』、岩波書店、2002年、p186)カント自身がこのよう語っているのですから、鉱山の鉱脈のように「人間性の回復」を促す分脈が、『純粋理性批判』のなかに埋もれているに違いありません。どの辺で、どのような表現で埋もれているかは分かりませんが、その方が、かえって探す楽しみがあります。
また、「科学の場合と同様、新しい哲学をつくるのは新しい発見である。カントの場合も、そのような哲学上の発見によってつくられている。・・・カントを読むということは、カントの発見を再発見することにほかならない」(『哲学からのメッセージ』、木原武一著、新潮選書、p12)と言われるように、この本には、いくつかの哲学上の発見が含まれているようです。木原武一氏によれば、それは四つで、「認識、理性、そして人間に関する発見」だそうです。
このように、『純粋理性批判』を読み進むに当たっての二つ目の予備知識は、一つ目と重複する部分もありますが、次のようなことです。それは、「カントを読むことは、カントによる哲学上の発見を再発見することでもある」ということです。
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