ゴーギャンが『アレアレア』で描きたかったのは、「人間と野生の犬みたいなものがお互いに自由に、楽しく静かに共生している」世界であり、だから、「この犬は野性的な生命力の象徴として赤くなければいけなかった。こちらにある人間達と同じような色で描かれて」いる、という。だとすればゴーギャンは、理想の社会を探しにタヒチに行き、そこで見つけた”ゴーギャンの理想”社会を描いたのかもしれない。あるいは、創作をする過程で、”ゴーギャンの理想”社会というものを考えたのかもしれない。ゴーギャンの魅力を発見した気分だ。
| 『アレアレア』 |
彼はその頃のヨーロッパの爛熟した商品文明、自分で株式ブローカーとして裏の裏まで知り尽くしていた商品世界、表面的な繁栄に対して強い嫌悪感をもってタヒチに行くわけです。この絵に関して彼は友達に次のような手紙を送っています。私はここで「野蛮な豪華」というものを描きたかった、と。この野蛮な豪華さを形作っているものは「絹でもない、ビロードでもない、金でもない」、純粋な画家の手によって豊かにされたマティエールである、と。絹でもない、ビロードでもない、金でもない、そういったいわば商品世界のものによってゴテゴテと飾り立てられた身体ではない、純粋な野蛮のもつ豪奢なのだと。
これは『アレアレア』という彼の代表作の一つですが、タヒチの言葉で「歓ばしさ」とか、「静かな幸福」という意味です。ゴーギャンが一度パリに帰って画展をした時に大好評を得ます。ところが、この絵の犬だけは非常に評判が悪かった。この赤い犬です。変な犬だ、ということで評判が悪かった。今でも、犬を切り取って二人の女性を真ん中において絵葉書とかが作られています。それはゴーギャンに対するよくある誤解の典型的なもので、ゴーギャンは別に女性の身体だけを描こうと思ったわけではないのです。ある一つの世界があるということを描きたかったのです。人間と野生の犬みたいなものがお互いに自由に、楽しく静かに共生している、そのような世界を描きたかったのです。それ以前、この絵を発表する前のヨーロッパの絵の中に出てくる犬というのは、貴婦人が手に抱いているテリアとか、いわば飼い慣らされている可愛い犬、つまり文明的な犬だったわけですが、その目から見るとこの犬は変な犬だということで評判が悪かった。ゴーギャンが言いたかったことから言えば、この犬は野性的な生命力の象徴として赤くなければいけなかった。こちらにある人間達と同じような色で描かれています。(『定本見田宗介著作集10』、岩波書店、2012.p 27~29)
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