2020年12月23日水曜日

ここにカントが生きている

 カントの著作に「あらためて立てられる問い —— 人類はより善い方向へ絶えず進歩しているか」という魅力的な論文があった。その途中経過を飛ばして結論に急ぐと、次のように進歩の過程が語られる。

 やがてだんだんと権力者の側からなされる無法な振舞いは少なくなり、法にしたがった振舞いが多くなるであろう。いくらか善行が多くなり、法廷では口論が減り、約束は信頼性が増すであろう。他にもあろうが、こうしたことは、一部には名誉愛から、一部には公共体における自分の利益をよくわきまえていることから生じるのであり、ついには、対外関係における諸国民にまで広がり、世界市民的社会にまでおよぶであろう。(『カント全集・18』、岩波書店、p125)

 理性の要求(とりわけ法的観点での) にかなった国家体制を考案するのは、やはり甘美なことである。(中略)ここで考えられているような国家という産物が、どれほど遅くなろうといつの日か完成すると希望することは、甘美な夢である。しかし、それに向かって常に近づいていくことは、考えられうる(原文は傍点強調)ばかりでなく、道徳法則と両立しうるかぎりでは義務、しかも、国家市民の義務ではなくて、国家元首の義務である。(上同、p125〜6)
 権力者の無法な振る舞いは、今まさに進行中なだけに、カントの言葉がストレートに私の心を捉えた。そして、カントの考えを知って、21日に紹介した天才F1ドラバーだったセナの言葉を思い出した。「現実の矛盾に対峙しながらも、 自分と周りを少しでも良い方向に変えていくためには、それぞれが夢に向けて真摯な努力を続ける以外に方法は無い」(『セナ』、桜井淑敏・谷口江里也著、早川書房、1996年12月、p420、強調は引用者による)だ。カントが「考えられうること」としたことを、まさに自分のこととして語っている。ここにカントが生きている、と実感することができた。

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