しかし、題名を伏せて、ニコラ・ド・スタールの「サッカー選手」を見せて、サッカーを描いた絵だとわかってしまったら、必ずしも、題名にこだわる必要がなくなってしまいます。でもやはり、題名があった方が、よりインパクトがあるような気がします。
後者の引用に「音楽や美術には、問題設定もその解決もありません。むしろ、解決できない宙ぶらりんの状態で、その芸術家が何とかして自分なりの仮の解答をさし出したのが芸術だからです」とありましたが、意味することがよく分かりませんでした。しかし、よく考えてみたら、音楽や美術は、言葉にならない感情や情念といったものを対象にして、その対象を描き出したものです。ですから、受け取り方も当然多様です。いろんな味わい方があっていいのです。ですから、ゴッホの萎れた向日葵の絵を見て、なんでこのような絵を、と疑問に感じる人もいるでしょう。その理由がわかれば、より感動的な作品になるかもしれません。
分かることを拒否する点では抽象画も似ています。例えば、南仏のアンティーブでアパートから身を投げ、四十一歳で死んだニコラ・ド・スタールの「サッカー選手」と題された一連の作品があります。赤や黄や白、黒や紺のブロックのかたまりが、せめぎ合っているような画面です。サッカーを描くのであれば、数人がボールを取り合う写真が一番手っ取り早いのでしょうが、ド・スタールの絵は、確実に写真を超えて、そのせめぎ合いが伝わってきます。色と色のブロックがぶつかっているところに、汗が飛び散り、周囲の色からはサポーターの声援も聞こえてきそうです。絵を前にして、見る人はサッカー場にいる錯覚がします。画家の興奮がこちらにも伝わり、応援したくなるような色と形、筆のタッチなのです。
分かることを拒否したうえで、さらなる高みで感覚に訴えるのが抽象画です。脳はまたそこで、自分が一段と進化した喜びを味わっているのかもしれません。(『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』、帚木蓬生著、朝日新聞出版、2017年、p74)
美術館で、ひとつの絵や彫剣を前にしたときの感動も、大人が関心を持っていなければ、子供が感動を覚えるはずがありません。
まして、音楽や美術には、問題設定もその解決もありません。むしろ、解決できない宙ぶらりんの状態で、その芸術家が何とかして自分なりの仮の解答をさし出したのが芸術だからです。芸術には、問題解決という課題が課せられていないので、学習がまだその本質を失っていません。見た者、聞いた者は、何かを感じ、生の喜びを実感します。人生の無限の深さに感動するのかもしれません。
詩もそうでしょう。詩はそもそも、何かを解決するため、結着をつけるために書かれるものではありません。音のつながり、意味の連関を味わい、感動するものです。(上同、p192〜193)


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