私が感じている言葉のみだれは、言葉の使い方によるものです。本来言葉には、明確に対応するイメージが存在します。3という言葉から3個のリンゴやミカンがイメージできるように、です。
ところが対応するイメージのあいまいな言葉が、あいまいのまま使われています。民主主義などの、そうした言葉からのイメージは、いろいろあって頭が囲乱してしまいます。
しかし、加速する「日本語の崩壊」は、別次元のことでした。それは、日本古来からの「手書き文化」に関するもので、この国の国力にも影響があるというのです。さらに、手書きという「意識が言葉へと変わる日常不断の行為なくして、漢字や漢語を身につけ、使いこなすことはできない」ということを知って、もっと紙に手書きする時間を増やしたいと思いました。以下、紹介します。
パソコンとそのネットワークの普及により、やがて書くことは終焉し、子供たちも画面上で漢字を学習するようになると空想する人もある。だが、筆記具の尖端が紙と接触・摩擦・離脱する筆蝕――その「手ざわり」「手ごたえ」「手順」――を伴って、意識が言葉へと変わる日常不断の行為なくして、漢字や漢語を身につけ、使いこなすことはできない。書くことが稀薄になれば、政治、経済、思想、宗教等の表現を担う漢語から日本語は急速に崩壊する。
一九七〇年代半ばまで「書くことは大切」という社会的な暗黙の合意が広く存在し、家庭でも学校でも社会でも文字に対して口うるさかった。それが壊れた今、日本語の崩壊は加速している。
歴史をふりかえると、七世紀半ばの白村江の敗戦の後、大陸から分かれて日本国を建てた原動力は、国を挙げての書字運動・写経にあった。近代に欧米列強の植民地化を免れたのも、蓄えた江戸漢学の力で西欧語を漢語に翻訳し、日本語に吸収しえたからである。書語の表現水準こそが真の国力。その力が、この国では危うくなっている。
信じがたいという人は、子供の鉛筆の持ち方をのぞいてみるといい。そこに、書くことを忘れた世界最悪のぞっとするような光景を目撃することになるだろう。今必要なのは、のんきな「ダンス書道」や「漢字遊び」ではなく、鉛筆の持ち方、基本点画の書法に始まる抜本的な書字教育の再建なのだ。(『石川九楊著作集 別卷3』、ミネルヴァ書房、2017年、p523)
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