先ず内においては冠位十二階をお定めになって、今までの族制政治を天皇親政の正しき道に返させられました。外においては支那と対等の交をお開きになった。また新しく神祇をまつり、仏教を日本の国民の教化の指導原理として崇められました。また儒教も用いられました。その他教育に、芸術に、産業に、万般にわたって、日本文化の礎を定められたのであります。その数多の御功績の一つとして、今日残っております、そして千三百年来日本の精神文化の光として輝いておりますのが、『十七条憲法』であります。(『聖徳太子十七條憲法講話』、暁烏敏著、日本放送出版協会、1935年、p3〜4)
これだけでは、聖徳太子の業績まではわかっても、思想性まではよくわからない。”冠位十二階を定められた意義”がわからないからだ。その点、五木寛之さんは、”冠位十二階”についても解説されており、”「仏の前ではみな平等である」という聖徳太子の思想”まで明らかになって、わかりやすい。
親鸞は、聖徳太子が本来持っている人間思想というものに、深い興味を抱いたのではないか。聖徳太子は推古十一(六〇三)年に「冠位十二階」という制度を制定した。これは、「徳・仁・礼・信・義・智」の儒教の徳目を冠名にして、それぞれを大小に分けた十二位階を定め、色の異なる冠を諸臣に与えたものである。ここで驚いたのが、 世襲の弊害に気づき、その弊害を取り除こうとしていたことだ。今だに、議員の世襲がまかり通っている。それだけ甘みがあって手放せない、ということだろうか。
当時、大和朝廷には「氏姓制度」という支配体制があった。これは、姓(かばね)を持つ氏を構成単位とするものだった。そして、その特権的地位は一族で世襲されていた。
しかし、聖徳太子が定めた十二階の冠位は、世襲を認めず一代限りとしている。しかも、従来の姓とは異なり、個人の能力次第で昇級させた。これによって、聖徳太子は門閥の弊害を取り除き、有能な人材を積極的に登用したのだ、といわれている。
視点を変えてみれば、それはまさに「仏の前ではみな平等である」という聖徳太子の思想の表れだった、といえるのではなかろうか。(『日本人のこころ 3』、五木寛之著、講談社、p237)
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