アーレントの暴力に関する論考と、その解説を読みながら、何気ない会話の中にも暴力的側面があるのではないか。逆にいえば、アーレントの暴力論をヒントに、例えば夫婦間のコミュニケーション障がいを克服できるのではないか、と思った。例えばアーレントは次のようなことを言っている。
全体主義国家の強制収容所のように、暴力が絶対的に支配するところでは、法律だけでなく、すべての物、すべての人間が沈黙せざるをえない。暴力は政治的領域では周辺的現象であるというのは、この沈黙ゆえである。というのは人間は、政治的存在であるかぎり、ことばの力を与えられているからである。[⋯]ここで注意すべき点は、暴力それ自身はことばを発する能力をもたないということであって、ただたんに、暴力に立ち向かうときことばは無力であるということだけではない[Arendt1963:19/23-24.強調は引用者』(『法の政治学』、岡野八代著、青土社、p190、原文の強調は傍点)。夫婦間の最初のコミュニケーション障がいは、言葉による伝達に腹を立てられ、言葉が相手に伝わらないことに起因する。もし、怒りの言葉が暴言と言われるものなら、その言葉は偽りの言葉で、言葉の礫(つぶて)に他ならない。アーレントが言うように「暴力それ自身はことばを発する能力をもたない」からだ。このことからわかることは、感情的になった時点でコミュニケーションは成立しないということである。
また、「政治的存在であるかぎり、ことばの力を与えられている」というアーレントの言葉が真実ならば、今の国会における”強行採決”など、言葉の力の無視と軽視が続いている状態は、国会では暴力が支配的であることを意味している。もっとアーレントを読み込まなければならない、そう思うようになった。
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