福沢諭吉の文章を読んで、ソクラテスが言った「無知の知」というものを理解できた。それは、次々に現れる好奇心の広がりである。諭吉の作品への興味から、古文の世界への興味へと好奇心が広がり、そこから憲法第9条を歌った短歌への興味に広がった、という具合である。
今までも何度も古い文体の文章を読んできたが、自己流で理解できるところだけを読んできただけである。それでも何ら問題はなかった。誰に見せるわけでもなかったからである。しかし、今回だけは、正確に読んでみたいという欲求が生じたのである。そこで初めて、古文に対する無知を自覚できたのである。
諭吉は、「仔細に之を思へば千百の疑問際限ある可らず」といっているが、古文をよく読むと、歴史上のことや現代に通じる人間模様など、疑問や好奇心が限りなく生じるようである。数学も、「千百の疑問際限ある可らず」になって初めて、その面白さが分かるのかもしれない。
そう言えば、将棋の名人戦を観戦した茂木健一郎さんが「トップ棋士が名人のタイトルを巡る闘いで見せる深い沈潜こそが、人間の脳の可能性であり、限界はまだ誰も知らない」「細切れの現代を生きる私達にとって、深い集中に触れること自体が、一つの恵みとなる」(2012年5月2日、朝日新聞)と書いている。沈潜とは、心を落ち着けて深く考えること。また、深く没入することである。古文や数学などを学ぶ過程の沈潜体験こそが、無知の知であり、福沢諭吉の「人生の楽しみごと」なのではないだろうか。
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