そこで考えたことは、A4用紙一枚の世界に、一つの思い、書きたい対象をメモして行き、そのメモをもとに文章を書いていく実験をしてみたい、ということである。
そういえば、”日本語で書く”という場合、文章や詩などを綴る場合と、文字そのものを芸術的な対象として書く場合がある。後者の場合は筆を使って習字をするともいう。この場合、心の癒しになる。つまり、「筆は柔らかな獣毛でできていまして、筆が広がれば柔らかなタッチが自分のほうに戻ってきますから、今風に言えば、自らの魂安かれと癒や」しになるというのだ。新しい発見である。それなら、いつかは迎えるであろう寂しさ、不安の心の準備として、癒しを求めた”書”もいいかもしれない、と思った。
紙というのは、自分に先立ってあるところの一つの世界です。自分に先立ってあるところの力の集合体が今、皆さんの目の前にある。字を書こうとした時には力の集合体が既に前もってある。それに作者は筆記具で字を書いていくわけです。それは農夫が鋤や鉄を持って耕すのと同じことです。その証拠に筆記具というのは、すべて先に向かって、円錐状をしています。例外はありません。何のためにとがっているか。紙に対して切り込んでいくために、とがっているわけです。(『石川九楊著作集 別卷3』、石川九楊著、ミネルヴァ書房、2017年、p348)
一つのエピソードをお話しします。かつて、オウム事件で殺害された坂本弁護士一家のうち夫妻の遺体が新潟、富山県で発掘された日がありました。その時に坂本弁護士のお母さんが何をしてその日を過ごしたか。これが絶妙だと僕は思うのです。
このお母さんは一日、良寛の書の習字をしていたというのです。それはどういうことか。筆というのは刃物ですから、一方では麻原憎しという思いを紙に刻んでいくことができるわけです。他方、筆は柔らかな獣毛でできていまして、筆が広がれば柔らかなタッチが自分のほうに戻ってきますから、今風に言えば、自らの魂安かれと癒やすことができます。
要するに自分の子どもと、その奥さんと一家が死体となって現われてくる耐え難い日に、どうしようもない身もだえするような時に、一方では麻原憎しという思いを習字する。もう一方では、筆は柔らかく、無数の毛がうごめいています。その筆蝕、手応えを通じて、わが心安かれ、私の魂よ鎮まりなさい、もう取り返しはつかないのだーー。憎しという思いと、自らの魂を安らげる効果と両方を、習字を通してやっていたのです。
これ以外にはあり得ないというほど、恐らく最も見事な一日の過ごし方であったと、僕は考えます。それは今言ったように、筆記具というものが刃物であって、そして刃物と同質のものを隠しているというところに、根本的のところが隠れています。(『石川九楊著作集 別卷3』、石川九楊著、ミネルヴァ書房、2017年、p350~351)
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