2022年9月30日金曜日

共同幻想論としての国家像

 吉本隆明の代表的とも言われている共同幻想論という思想について、本を読んでも、いまいち分からないところがあって、どうしてこれが、という感じだった。しかし、この思想を紹介していた『考える教室 大人のための哲学入門』(若松英輔著、NHK出版、2019年)を読み直し、初めて、共同幻想論としての”国家像”というものを理解することができた。同時に、異界というものも理解することができるようになった。
 今までは、異界の一つでもある「黄泉の国」、つまり、「死後,霊魂が行くとされる所、”死者の国”など存在しない、死んだら原子になって宇宙に帰るんだ」と思ってきた。しかし、そのような存在も、共同幻想と考えれば、そうした存在も認めることができる。正確にいうと、”死者の国”という幻想を見る人々の群れの存在が現実に存在するのであって、自分はその群れの中に入っていないだけの話だったのだ。
 吉本隆明は、国家も共同幻想だと言っているが、ここで重要な点は、西洋と日本の「”国家像”としての共同幻想は違う」ということであろう。西洋では、次のような「社会から分離した概念」であるのに対し、日本の場合は、「国家が国民の全体をすっぽり包んでいる袋のようなものだというイメージ」だというのである。
 人間は社会のなかに社会をつくりながら、じっさいの生活をやっており、国家は共同の幻想としてこの社会のうえにそびえているという西欧的なイメージであった。西欧ではどんなに国家主義的な傾向になったり、民族本位の主張がなされるばあいでも、国家が国民の全体をすっぽり包んでいる袋のようなものだというイメージでかんがえられてはいない。いつでも国家は社会の上にえた幻想の共同体であり、わたしたちがじっさいに生活している社会よりも小さくて、しかも社会から分離した概念だとみなされている。(「文庫版の序」より)
 あらためて戦前の国体概念を考えると、それがいかに幻想であったかということと、その国家概念が天皇を中心とした「国民の全体をすっぽり包んでいる袋のようなもの」というイメージがぴったりであることがわかる。確かに、そうした袋の外にいた人々もいるにはいたが、ほとんどの人々は、共同幻想を抱いていたと言ってよい。
 ここで問題と思えたことは、戦後になって戦前のような国体概念こそ無くなっても、姿形を変えた似たような共同幻想としての国家が存在していて、そうした概念が日本における民主化の妨げになているのではないか、ということだ。この点は、再考して深めたいところである。

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