その要点とは、日本の「安全保障論議」について、「日本の世論は、どこかおかしい。それを一口で言えば、
戦争の文明史的本質が見失われているということである。主義主張やイデオロギーという皮相な次元ではなく、明確な本質的問題を提起する必要があるという結論に達した。
それは「戦争とは国際紛争解決の最終手段である」という文明史的洞察の原点に立ち返ること。(国際法学者ホセ・マリア・アラネギ、『国民のための戦争と平和』、小室直樹著、ビジネス社 、2018年、p222)
だという。その上で、
著者はこの平和主義者が第二次大戦という「不必要の戦争」を招来したという歴史の矛盾を指摘しつつ、文明史的に戦争を捉え、それを回避する道を示し、戦争なき未来に至る道を示唆する。それは念仏でもお題目でもない。この結論の、どこかがおかしい。それは何か。
そうではなく「戦争より合理的かつ実効的な国際紛争解決の手段を考案しないかぎり、戦争は消滅するはずがない――別の言葉で言えば、平和という制度を、戦争以上に高度の組織的努力の体系とするということである。――それは、結局、戦争を上まわる巨大な努力の体系ということになる――」(評論家 山本七平、『国民のための戦争と平和』、小室直樹著、ビジネス社 、2018年、p223)
それは、「戦争より合理的かつ実効的な国際紛争解決の手段を考案しないかぎり、戦争は消滅するはずがない」と言ってしまうと、そうした手段待ちになってしまい、何処か、人任せになってしまう。現実はそういうものではなく、戦争勢力の思想と、それと対決する思想の闘いである。
もっとはっきり言ってしまえば、小室氏の主張は、平和を求めているようなそぶりを見せながら、結局は戦争肯定論になってしまう、ということである。だからこそ、憲法九条が存在する「いわゆる日本国憲法というものは最初から効力がない。手続きとして無効であった」(『新世紀への英知 われわれは、何を考え何をなすべきか』、小室直樹・渡部昇一著、祥伝社、2001、p120)などと言ってしまうのだ。
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