2020年7月14日火曜日

明治以来だった現政権の卑屈性

 最近数学書も読み始め、ときどき計算問題を解いたりするようになった。ただ単に数式を展開するだけの問題でも、答えができ、かつ、正解だとわかると、それだけで嬉しい、ということを発見した。
 今日も計算していて、指数でわからないところがあったので、書棚にあった数学書を手にとってみた。その過程で、積ん読していた小倉金之助さんの本に、気になることが書かれており、寄り道して、その部分を読み始めてしまった。
 『數學史研究』(岩波書店、1935年)の「階級社会の算術 その一 —— 植民地時代に於ける南北アメリカの算術に関する一考察 —— 」「スペイン植民地」という項目と、『近代日本の数学』(新樹社、1956年)の「明治政府の卑屈性」という項目だ。
 数学史の中で、植民地の実態が、一部でも解明されていたのも驚いたが、現政権の卑屈性が明治政府以来のものであったことを知り、その根深さを思い知らされた。

 なおパークスは日本政府への手紙に、ろくに敬語も使わなかった。日本歴史講座第五巻『近代篇』の石井孝氏の”明治維新の国際的環境”を読むと、次の個所が目にとまる。
「……かかる半植民地的状態の強化に対して、世界資本主義の援助によって成立し、したがって買弁性をもつ明治政府は、それに抵抗しえずして、きわめて卑屈な態度をとらねばならなかった。パークスが明治政府の大官をよんで、どなりつけたという話のごとき、もっともよくこの明治政府の性格を示す。」
 以上いろいろな話から読者は、人民に対して横暴を極めた明治の絶対主義的政府が、強力な先進国に対しては、独立心がなく、どんなに卑屈なものであったかがおわかりであろう。(『近代日本の数学』、p139〜140)

 と、ここまで書いてきて、明治政府の絶対性と卑屈性は、「対で一体」なものではないか、という思い(仮説)に至った。「弱者に絶対(強権)性を発揮する」ゆえ、「強者に卑屈にななる」。反対に、「強者に卑屈である」ゆえ、「弱者に絶対(強権)性を発揮する」のだ、と。その具体例が、現政権のアメリカに対して卑屈性である。それゆえに、辺野古などで、強権性が発揮されている、と考えられる。そう考えると、卑屈性も、民主主義の対極にある概念ということになる。

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