そうしたが考えに対し私は、未来は未知数なのだから、今、人間的に豊かな生活を目指さなくて、どうするの?と疑問に思ってきました。同じように感じていた人の存在を知って嬉しくなってしまいました。しかも、的確に表現してくれていました。
政治運動というものは、自分たちが実現しようとしている未来社会を、「いま、ここ」にある運動を通じて先駆的に実現していなければいけない、というふうに思ったからです。
未来社会の萌芽形態が「いま、ここ」になければいけない。僕たちはこんな社会を作りたいんですという時に、その政治運動そのものが未来社会の雛形として現にここにあって、運動を見ているだけで、僕たちが何を目指しているかがわかる。こういう社会を作りたいんです。今やっているこの運動を拡大していって、社会全体に広げていくと、僕らがめざす未来社会ができる。そういうふうにしなければ、どんな政治的主張も説得力を持ちえないと思ったんです。そんなことを思ったのは僕だけかもしれませんが。(中略)これは左右を問わず、戦後のすべての政台運動について言えることだと思います。
実際に運動を率いている運動の主体である人たちが、自らの組織した集団それ自体が来るべき未来社会の萌芽形態である、理想的な社会を先取りしたものだと主張していたケースを僕は知りません。宗教的な運動などでは、そういうものがあったかも知れませんが、政治運動には存在しなかった。(『やっぱりあきらめきれない民主主義』、内田樹著、水声社、2016年、p23〜25、強調は引用者)
そう言えば、日本国憲法も未来社会論の一形態といえます。多くの革新自治体が誕生し、京都都知事だった蜷川さんは、ポケット憲法を作り、憲法の精神を政治に活かそうとしました。まさに、今考えれば未来社会の萌芽形態を実践してきたです。残念ながら、実りある成果が足りなかったためか、潰されてしまいました。このような運動を再び起こし、身近なところから理想を実現していくことが求められているのかも知れません。
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