もう一点知らなかったのは、空からの爆撃だけで無く、海からの本土への艦砲射撃もあったことです。「七月になると本土周辺の制空権だけでなく、制海権も完全にうしなわれ」、「ミズーリ、アイオワなどの米戦艦」による艦砲射撃が加わっていたのです。だから、日本全土が、もう、やられっぱなしだったのです。ひょっとしたら、このような現実を軍部が握り潰していたのかもしれません。
いずれにしても、ジェノサイドも厭わず実行してしまう米軍と同盟を組み、足並みを揃えようとしている日本政府のあり方は問題です。やはり、軍事同盟は解消し、日本国憲法に則ったやり方で世界の平和に貢献してもらいたいものです。
本土空襲と艦砲射撃
国民が戦争の悲惨さを思い知らされたのは、B29などによる空襲であった。B29による日本本土空襲は、一九四四年六月一六日の北九州爆撃によってはじまった。この日から一一月までの八回の空襲は、中国の成都から飛来したB29によるもので、おもに九州の北部と西部の都市が爆撃されたが、一一月二四日に、東京がマリアナ基地を飛びたった約八〇機のB29に空襲されてから敗戦の四五年八月一五日まで、本土は連日のように米軍機の爆撃にさらされた。一年二か月におよぶ空襲の期間は、爆撃の戦略的性格と攻撃方法からみて、つぎの三期にわけることができる。
第一期は、四四年六月から四五年三月初旬までで、高性能爆弾と高度約一万メートルからの高々度精密爆撃により、主として軍事施設と軍需工場を爆撃するものであった。
第二期は、四五年三月一〇日の東京大空襲から五月までの時期である。東京・大阪・名古屋・神戸などの大都市の工場地帯と住宅密集地にたいする、焼夷弾を用いた低空爆撃戦法による大規模な無差別爆撃が、この時期の特徴であった。とくに三月一〇日の東京大空襲は、周囲に焼夷弾をおとして火の壁をつくり、火の輪のなかを逃げまどう都民に焼夷弾の雨をふらせて焼き殺すという、文字どおりのみな殺し爆撃であった。おりからの烈風にあおられて火の手はもえさかり、東京の下町一帯は焼野原となった。被害は、焼失戸数二五万九〇一一戸、死者八万三〇七〇名、重軽傷一一万三〇六三名、罹災者八八万九二一三名にのぼった。わずか二時間半の空襲でこれだけ多数の被害をだした例は、広島と長崎の原子爆弾をのぞいてほかにはない。この時期以降は、日本の戦闘機が迎撃に飛びたつことも少なくなり、米軍機は思うままに爆撃をくりかえした。
第三期は、四五年六月から八月の敗戦までの時期である。のこりの大都市と地方都市が低空爆撃によって片っぱしから破壊され、グラマンド6Fなどの戦闘機の機銃掃射による犠牲者もかなりあり、広島と長崎が原爆攻撃をうけた。七月になると本土周辺の制空権だけでなく、制海権も完全にうしなわれた。ミズーリ、アイオワなどの米戦艦が本土に接近し、釜石(七月一四日と八月九日)・室蘭(七月一五日)・日立と勝田(七月一七日)・浜松(七月二九日)に艦砲射撃をくわえ、七月三一日には、米潜水艦が清水と苦小数を砲撃した。七月一七日の真夜中、茨城県那珂郡勝田町(現勝田市)の日立製作所と日立兵器の軍需工場が砲撃された。(上同、p 324〜325)
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