よく書評を読んで、著書だけでなく評者の人となりにも興味が湧くことがあります。『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』(須藤訓任著、講談社、1999年)の書評も、その中にニーチェ思想のエッセンスが簡潔に述べられていて、 評者に興味を抱かせてくれました。
そういう時は著者で図書館の本を検索します。そして見つけた本が、『暴力論 上』(ソレル著、今村仁司訳、岩波文庫、2007年)と『排除の構造 力の一般経済序』(今村仁司著、青土社、1989年)です。
肝腎の書評は、次の通りです。
この著書は「ニーチェを素材に人間精神の不思議を解明」したもので、
本書はニーチェ論であるが、ニーチェを素材にして人間精神の一種の不思議を解明してくれる。
ニーチェにとって、いかに「はじまり」が大切であったかは、本書第一章「ニーチェのはじまり」が見事に教えてくれる。「はじまり」は、いくつかの相をもっている。まずは伝統的なはじまりであり、次に思想的なはじまりがあり、さらに思想と学問の範囲内で、いくつかのはじまりがある。
この二〇〇年の思想家たちのなかで、ニーチェほど自覚的にこの種々ののはじまりを経験し、生き抜いた人はいない。学生から文献学教授への転身、処女作『悲劇の誕生』をもって文献学から哲学への転身、さらに『ツァラトゥストラ』をもって独自の思想的境地に立ちながら、さらにそれからの転身をさえはかろうとする。最後の狂気ゆえの沈黙もまた、一つの新しいはじまりとすら言えるほどである。
ニーチェの思想を標語風にいえば、永劫回帰と力への意志につきるだろう。二つの関係は、著者の示唆によれば、「人は自分があるところものに成る」という古代のピンダロス以来の命題で説明できる。「ある」ははじまりであり、人はたえず「ある」としてのはじまりに永劫に回帰する。「成る」は意欲であり、意欲は要するに力への意志である。何度もはじまりを切断しつつ、やはり力の意志によってそこへと回帰しながら人は成熟していく。
著者によれば、ニーチェの二つの思想は、すでに少年期の作文のなかに顔を出しているという。そうだとすればニーチェは幼態成熟していたのだ。聖人としての成熟は幼態成熟の際限のない繰り返しであろうし、ニーチェはそれを相当に自覚していたふしがあり、それは実に異例というほかはない。
しかし意欲と回帰にもロバと賢者の差異があるはずだ。そこでニーチェは「耳」の差異をもちだす。長い耳は鈍感であり、小さい耳はどんなささいな差異にも敏感であり、そこから普通には見えない宇宙と人間の真実をつかみとる。繊細な差異感覚なしには、あのキリスト教批判とプラトニズム批判はありえなかったろうし、自己の思想をもパロディにすることでより一層人間精神の真相に迫ることもなかったであろう。
ニーチェにおける「耳の論理学」は決定的に重要であることを本書は繰り返し教える。その論証は丁寧であり、見事である。その他の論点に関しても、おそらくは著者の意図をこえて実に多くの思索の種が提供されている。新しいニーチェ研究の出現を喜びたい。今村仁司著「ニーチェを素材にして人間精神の一種の不思議を解明」『エコノミスト』、2000年2月1日、p98〜99)
強調は私によるものです。私には、この部分が、「ニーチェ思想のエッセンス」に思えたのです。「力の意志によってそこへと回帰しながら人は成熟していく」ここでの”そこ”とは、なんでしょうか。興味のある疑問です。” 聖人”でしょうか。だとしたら、ニーチェにとって” 聖人”とは? ニーチェについての新しい興味です(ワク!ワク!)。
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