ヒルティの『幸福論』は知っていましたが、『幸福論』は仕事論でもあったことを最近知りました。
彼の『幸福論』は、書名の通り幸福の本質が探究された名著だが、同時に秀逸な仕事論でもある。それを証明するように第一章の題名は「仕事の上手な仕方」となっている。(批評家・若松英輔「言葉のちから 着手と着想~カール・ヒルティ『幸福論』」 『日本経済新聞』、2023年9月16日)というのです。その場合の仕事の概念も興味深いものでした。ヒルティが論じている仕事は、一般に考えられているような「報酬を得ることとは限らない。日常の営みにおけるやらねばならないこと全般を指す」(上同)ようです。生活全般にわたる生活術のようなものなのでしょうか。だとしたら、ヒルティの『幸福論』に対する興味が倍増です。しっかりと読み込んでみたいです。
よくいわれることに、やる気というものは、やっているうちに出てくるというのがります。そうした例が次のように紹介されていました。
アスリートの知人は調子がよかろうとよくなかろうと練習をする。練習することでしか調子が取り戻せないとも語っていた。文筆家の友人は書けそうにないときもペンを走らせる。すると思いのほか書けることが少なくないという。(上同)ヒルティの言葉とその解説は次の通りでした。ヒルティの「面白味も着手あるところに生まれる」というのも、とても興味を持って読みました。仕事をして「面白味」が湧かないようなら、真の仕事をしていないのかもしれません。
「仕事の机にすわって、心を仕事に向けるという決心が、結局一番むずかしいことなのだ。一度ペンをとって最初の一線を引くか、あるいは鍬を握って一打ちするかすれば、それでもう事柄は*ずっと*容易になっているのである。」(草間平作訳)
ヒルティの助言は明快だ。どんな状況であれ、身体を机に向け、心を仕事に向ける。そして、やらねばならない最初の動作をする。ただそれだけだ。何ら複雑なことはない。ただヒルティは、やる気と仕事のあいだに回路を結ばない。やる気に頼るような仕方で仕事をしないのである。
気は乗らないが着手する。すると意外と事がよい方向へ進む。こうしたことも多くの人に経験があるのではないだろうか。もっと早く着手すればもっとよい仕事ができただろう、そう思ったことのない人の方が少ないのではあるまいか。
誰でも大きな困難があれば二の足を踏む。だが、着手さえすれば、仕事にまとわり付いていた困難という覆いが剥がれ落ちることを知っていたら、仕事に向き合う態度もまったく別なものになるだろう。
同じ文章で彼は「他の人たちは、特別な感興のわくのを待つが、しかし感興は、仕事に*伴って*、また*その最中に*、最もわきやすいものなのだ」とも述べている。ここでの「感興」は「面白味」と置き換えてもよいかもしれない。
面白味が湧いたら仕事をする、という人がいても驚かない。しかしヒルティは、面白味も着手あるところに生まれるという。
面白味のあとには、妙味が生まれるのも自然の道理である。仕事は単に営むものではなく、深く味わってみるものなのではないだろうか。(上同、**内は傍点でした)
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