さらに、著者が「虚心坦懐に味わってみる価値のある言葉」として紹介していた言葉「憲法を弊履(使い物にならない履物)のごとく捨てざるをえない立場に追い込まれた人間はやがていかなる条約をも、いかなる協定をも弊履のごとく捨てるであろう。」も、その通りです。同じように、憲法を守ろうと(尊重)しないものに、憲法を語る資格はない、と思いました。
日本政府が、マ元帥の勧告にしたがって挿入したのでも、また日本政府のイニシアティヴによってできたのでも、いまさら、かれこれ論議する必要はない。当時の日本政府はこの条項(憲法第九条)の挿入によって、未だかって前例のない平和憲法をもつにいたったことを誇りとし、これを国の内外に宣伝し、憲法普及会を設けて、この平和憲法、民主憲法の精神を国民に徹底させることに努めたのである。われわれは当時、あの条項の挿入された事情などはよく承知しなかったし、また、この平和憲法を維持して行くについては、いろいうな困難があるであろうことを予想しなかったわけではない。けれども、それが理想的なものであり、かつ一旦国家の意思として決定されたものである以上、万難を排して理想の実現に協力すべきであると決心したのであった。
しかるに、わずか数年ならざるに、国家の名誉にかけ、全力をあげてその崇高な理想と目的を達しようと誓ったその国民が、この誓いを破って軍備をもつようにしようとしておるのである。これが果して国家の名誉といえるであろうか。
(中略)
新憲法の前文と、その第九条とは新日本の理想を高く掲げたものであって、これを改正して軍備をもちうるようにすることは、いろいうな意味から明らかに旧日本への逆もどりである。いったん掲げた平和の旗印をおろすことは、それは平和からの百歩の後退を意味するものであることを知らなければならない。
さる有名な評論家は一昨年、ある綜合雑誌に左の通り述べておる。
” (中略)目先の算盤で日本のかっての軍国主義の諸要素を利用する者は、まもなく法外に高い勘定を支払わされることを覚悟しなければならない。⋯⋯民主主義を体得する好機を奪われた日本人は、いつまでも民主主義を脅かす力となるであろう。
憲法を弊履のごとく捨てざるをえない立場に追い込まれた人間はやがていかなる条約をも、いかなる協定をも弊履のごとく捨てるであろう。”
やや奇矯な云いあらわし方のようではあるが、われわれとして虚心坦懐に味わってみる価値のある言葉でけないだろうか。(おわり) (『どうする?日本の再軍備』、有田八郎著、憲法擁護国民連合、1954年、p108〜p113、太字強調は引用者)
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