2023年8月22日火曜日

日本国憲法と『歎異抄』

 私の頭の中で化学変化が起きている感じがしています。立憲主義と歎異抄と日本人論が混じり合って、立憲主義の中心に歎異抄に代表される仏教の精神と日本人論が入り込んできた感じです。
 立憲主義とは、「権力の暴走を防ぐため国家に命令したもの」という解説が多いです。しかし、立憲主義の憲法で一番大切なことは、国民、人民、公民、あるいは庶民の基本的人権を守ることで、そのために権力の暴走を防ぐ憲法もあると捉えることが重要です。その際、立憲主義憲法の対象と、歎異抄の対象は同じだということです。
 ところが、憲法に基づいて選挙された代議士の多くの目線は、庶民の方を向いていません。だから、軍事予算を倍加しようなどと考えるし、法治国家と言いながら、平気で国会開催要求を拒んだり、本来は守るべき憲法を改悪しようとしたりしています。
 参考までに、歎異抄について、なるほどと思ったところを引用しておきます。なお、最もわかりやすかったところは「この本願は親の念力である。親の念力は子を育て上げる力である。この力によりて子は助かるのである。この道を子のほうからいえば絶対他力の大道にほかならない。その絶対他力の大道とは、我々が生に処し、また死に処し、自分という考えをはさまずして、もっぱら仏力本願に順応して平和と自由とを享受して行く主義である」(『歎異抄講話』、暁烏敏著、講談社、1981、p33)です。分らないところもありました。「親鸞聖人の精神よりいえば、カントの哲学も、ヘーゲル
の哲学も、ダーウィンの進化論も、・・・みんなそらごとたわごと」(上同、p35からの要約)だというところです。
 いずれにしても、多くの人が解説しているので、読み比べてみようと思っています。特に『梅原猛の「歎異抄」入門』です。(一晩経ってみたら、「カントの哲学も、・・・みんなそらごとたわごと」の意味がわかりました。カントの哲学を学ばなくても、ということだろう、と。やはりそうでした。この項には続きがあって、「一つとしてあてにすべきところはない」「ただ一つあてになるものは如来のお慈悲である」「この真実の御力を信じ御光に照らされていったならば、ぬすむ者でも、殺す者でも、・・・仁者でも、悪人でもことごとく仏の真実にたよって大安心ができるということをていねいに教示したのがこの『歎異抄』である」(上同、p35強調は引用者による)とあったのです。日本国憲法第一三条の「すべて国民は、個人として尊重される」に「照らされていったならば、ぬすむ者でも、殺す者でも、・・・仁者でも、悪人でもことごとく憲法の真実にたよって大安心ができる」となるのではないでしょうか。
 今日私どもを種々批評し嘲弄(ちようろう)する人でも、一年二年または数年の後には、私どもの信仰と同じいところに来るにちがいないと思えば末たのもしいことである。今日いくら私どもを罵り『歎異抄』の精神を嫌う人でも、まじめに人生問題を思考し、着実に宗教の修養に心がけたならば、必ず一度は「歎異抄』に来たらねばならぬことは火をみるより明らかなことである。
 私どもが先年初めて精神主義の絶対他力信仰を天下に発表した当時非常に嘲弄していた朋友で、その後種々人生問題に苦しんだ結果今日では大いにこの絶対他力の信仰で安慰を得ておるのが二、三に止まらない。 これは動かすべからざる真理である。
 いやしくも安心立命を求むる人であったならばこの『歎異抄』に逢着(ほうちやく)するまで進まねばならぬのである。この『歎異抄』まで来ねば大安心は得られぬのである。この『歎異抄』に来たらずして定まった安心は破損する安心である、危うい安心である。ゆえにこの『歎異抄』の味のとれない人は大安心のない人であるというても過言ではない。
 これと同時に、この『歎異抄』の大精神を発揮しつつある私どもの精神主義についてかれこれいう人はいまだ安心の境界に遠い人と申さねばならぬ。しかし私どもが『歎異抄』を嫌いながらついに『歎異抄』の渇仰者とならねばならぬようになったように、今日私どもの精神主義をかれこれいう人も、ついには精神主義によらねばならぬときがくるにちがいないと思えば末たのもしいことである。
「歎異抄』はまじめに自己都察をし、戯格に自己を判断し、自己の罪悪に泣く人でなければ解せられないのである。『歎異抄』は自心を地獄の底に沈ませるほどの深き洞見がなければ、味わわれないのである。ゆえに『歎異抄』は死の問題に驚いた人、事に失敗して失意の境にある人、倫理的罪悪に苦しむ人でなければ味わうことができぬのである。これと同じく私どもの精神主義もそうである。ゆえに私は精神主義を誹る人がいくらあろうが、これらの人々はいまだ人生の経験の足りない人々であるから、やがて種々の経験をつむに至らば、自然に私どもと同じ信仰に来たるに相違ないと信じて疑わないのである。(『歎異抄講話』、暁烏敏著、講談社、1981、p30〜31)
 ここでいちばんの魅力というか、関心は、「安心立命」であり、「大安心」という境地です。やがて訪れるであろう「死の準備」こそが、『歎異抄』の説く「安心立命」であってほしい、という希望でもあります。
 ただ、カントが「これでよし」と言って旅立っていったということが心に引っかかっています。このことを知ったとき、カントの哲学を修めれば、カントのように「これでよし」と言って旅立つことができるかもしれないと思ったものです。だから、宗教と哲学の二面作戦を考えています。

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