そもそも、無力感というものは、何者なのだろう。人はなぜ無力感に陥るのだろう。有名な話に、穴を掘ってはそれを埋め、その繰り返しをやっらされたとき、人は無力感に陥る、というのがある。つまり、無意味な労働をさせられたとき、人は無力感に陥る、というのである。私の場合は、夫婦で一緒にいても、共感を得られないのが一番辛い。二人で生活している意味を失い、たとえ一時的にせよ、自分が生きている意味さえ失ってしまう。その結果の無力感である。
だがしかし、よく良く考えてみると、自分の感情をコントロール出来ない弱さ、人を許せない心の弱さが、根底にあるような気がする。ちょっとした反発を受けても、笑って受け流せるくらいの心の余裕があっても良かったのである。
このように考えてくると、私にとっての軸も考えなおさなくてはならない。心を見つめ、トルストイの言うところの神に近づくこと。その意味と方策を思索することこそ、私にとっての軸に据える必要があるのではないだろうか。どちらにしても、もっと身軽になることを本気になって考える必要がある。そのためにも、何をあきらめるかを含めて、これらの問題を考え続けることである。そう簡単な問題ではないからである。
以上は、だいぶ前に書いたものだ。
今でも、夫婦喧嘩はするが、以前ように無力感に陥ったり、命さえ惜しくないような状態に陥ることがなくなった。なぜかを考えたとき、『根をもつこと』に書かれていたことを思い出した。
人間は複数の集団に属し、生きることが多い。そのことをヴェイユは、「人間は、複数の根をもつことを欲する。自分が自然なかたちでかかわる複数の環境を介して、道徳的、知的、霊的な生の全体性なるものをうけとりたいと欲するのである」(『根をもつこと・上』、シモーヌ・ヴェイユ著、岩波文庫、p94)。なぜなら、 「異なる環境のあいだで交わされる相互の影響は、自然につむがれる人間関係への根づきと同じく、成長に欠かせない要因である」(上同)と述べている。以前よりも、しっかりと根を張ってきたのかもしれない。
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