2022年2月20日日曜日

法の支配=理由に基づく統治

 ノートに「過程は公開→民主社会 22/1/13朝日」とメモしてあった。なんのことかはすっかり忘れていた。検索してわかったがメモは、<(憲法季評)弁護士の電源使用、裁判長が制止 今問う「法の支配」の理念 松尾陽>という記事のことだった。改めて読み直し、「法の支配」というものがよくわかった。たとえば、

 「法の支配」の要諦(ようてい)は、どんな為政者も法に拘束されるということである。その法には、自らが制定した法も含まれる。そこに「法による支配」との違いがある。「私が作ったのだから私がその法の意味を自由に決められる」という理屈は許されず、その解釈適用は、為政者から独立した裁判所に委ねられる
 裁判所も自由に法を解釈適用すればよいわけではなく、理由に基づいて解釈適用しなければならない。このことを最も端的に記したベルギー憲法149条においては、裁判所の判断は「理由によって支えられる」と規定されている。
 究極的には、法の支配とは、理由に基づいて統治するということであり、一種の理性支配である
 民事事件においても、裁判所はある個人の権利や利益を保障するという判断を下す際には理由付けを行う。そこでの理由は私にもあなたにも通用する公的な基準となる。また、その過程は公開される。私的な利益を保障する公的な基準が公開の形で形成されていく点で、民事裁判及びその弁護にも公的な側面があるといえよう。(下線強調は筆者による)
 このような「法の支配」の要諦を考えると、自ずと憲法第九九条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」のことを思い出す。「憲法を尊重し擁護する義務」を負うている国会議員が、何故に憲法改正を、しかも堂々と主張できるのであろうか。これでは「法の支配」が成立しないことは明らかだ。どうして、このことをもっと声を大にして問わないのであろうか。
 また松尾陽氏は最後に「理性による紛争処理」にも言及し、そのことは「法の支配」の実現になると、次のように強調している。
 暴力によらず理性の言葉によって紛争を処理していくことは、裁判に至らない紛争処理過程でも重要であり、そこには裁判官ではなく弁護士こそが柔軟に関与していくことができる。
 理性の言葉によって平和的に紛争を処理していくことは、法の支配の実現につながるのみならず、それ自体が、日本国憲法13条が規定する個人の尊重の一つの形である。(下線強調は筆者による)
 ここでは、「日本国憲法13条が規定する個人の尊重」というものに最大の価値を置くならば、憲法9条が、つまり「暴力によらない理性の言葉による紛争処理」が必然的に導かれることを示している。このことから明らかになることは、憲法改正で実現しようとしていることは「法の支配」を破壊しようとすることに他ならない、ということになる。

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