朝日新聞(2022年2月19日)を読んでいて、<崩壊する「戦後」>という言葉に違和感を覚えた。コラム<(ひもとく)外岡秀俊の志 「強権に確執を醸す」の持続 久間十義>で、<デビュー作『北帰行』で彼が啄木の『時代閉塞(へいそく)の現状』に言及し、「強権に確執を醸す志」を強調していたことを思い出す。ロンドンからの報告に、崩壊する「戦後」の正体を明らめんとする、密(ひそ)かに醸された彼の「志」を感じるのは、一人私だけだろうか>と書かれていたのだ。
同じような書名の本に、『戦後政治の崩壊 デモクラシーはどこへゆくか』(山口二郎著、岩波書店、2004年)がある。初め、<崩壊する「戦後」>という言葉に対する違和感の正体がわからなかった。しかし、こうして<崩壊する「戦後」>について書こうとしていたら、不思議と違和感の正体が見えてきた。それは、<「戦後は崩壊した」というのは真実ではないのではないか>という疑問であった。
さらにいえば、「戦後は崩壊した」という場合の戦後を体現しているは何か、曖昧なところがある。しかし、戦後を体現しているものは、何と言っても日本国憲法であろう。それならば、たとえ解釈改憲されているとは言え、日本国憲法は健全である。日本国憲法が健全である限り戦後は崩壊していない。戦後(政治)は、痛めつけられているとは言えても、決して崩壊はしていないのだ。
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