以前、高橋源一郎氏への疑問を「高橋源一郎氏は真の民主主義守り手か」で書いた。そうした疑問は私だけではなかった。「(戦争を)知らない世代こそが希望だ」という高橋源一郎氏への疑問 - 野口尚孝のブログ」や、「高橋源一郎の独りよがりな「平和物語」の虚妄 - Hemakovichの半永久的平坦な戦場」でも、高橋源一郎氏を疑問視する論考が掲載されていた。
特に、後者の論考には、共感する平和論が展開されていた。以下、一部を紹介する。この中でも「悲惨な戦争をしてる国々の哀しみに共感しようという努力ができないことも『罪としての無知』であって、自国が戦争していないからといって済まされる時代ではない」という指摘には拍手を送りたい。
無知という罪に無自覚な人間が享受してきた時間は「平和」なのではなく、単に「戦争がない状態」に過ぎない。
そして世界がどんどんグローバルになっていく現代において、悲惨な戦争をしてる国々の哀しみに共感しようという努力ができないことも「罪としての無知」であって、自国が戦争していないからといって済まされる時代ではない、他の国々の「戦争と平和」への視野がないような状態で今のこの日本を「平和」と括れるのは愚かさでしかないということだ。
高橋にとっては「受け売りの『戦争の体験』」っていう程度の認識しかないんだから、最初っから過去の戦争体験に価値なんてその程度にしか置いてないんだろうね。
僕は戦争経験者の経験ってのは決して「他人の物語」なんかじゃなく、「人類が共有するべき記憶の財産」だと思ってるけどね。
ここんとこずーっと「被爆者の声」で、ビデオ証言見てるんだけどね、驚いたのは語り部さんの中には「日本ってアメリカと戦争したんですか?」と日本の若者に言われたって人もいるんだよね。
アメリカに行って被爆証言を話す人もいるけど、アメリカ人って本当に原爆の被害なんて何も教えられていないものだから、被爆の事実と戦後の被爆者の苦労なんかを証言すると、たいていの人たちが泣きながら「全く知らなかった」って言うらしいよ(そもそもアメリカ市民は劣化ウラン弾の存在すら知らないという)。
終戦の年とか疎開のことすら知らない日本の若者だったら、南京虐殺や強制連行だって全然知識がないんだろうけどね。アメリカ人が原爆被害のことを全然知らないことに対する我々の心の痛みを考えてみれば、南京やら慰安婦のことを全然知らないことへの被害者の痛みだって当然想像できるけど、そういう知的怠惰な無知のバカどもの無知を肯定したり、挙句は「彼女たちの『無知』にこそ、希望があるのだ」と言える神経って、どうなんだろうね。まあ僕がさっき書いた「我々の心の痛み」なんてものが高橋とか古市が持っていないんだったら、どうしようもないんだけどね。
あとさあ、「現在の日本人の大半にとって、もっとも『大きな記憶』とは、実は68年続いた『平和経験』」って言うけど、そんなにあっけらかんと言えるほど、日本は平和だったの? それ、高橋の感覚だけの独りよがりな断定じゃないの?
0 件のコメント:
コメントを投稿