2021年10月9日土曜日

「殺す側の論理」の法律体系

 何事も原理原則で考えることが大切だ。この原理原則を離れ、枝葉末節にとらわれていると、しまいにはその原則を忘れ、枝葉末節のできごとが本命になってしまいかねない。『殺す側の論理』を読んで考えさせられたことである。
 安保条約のことで言えば、「地位協定問題」がそれである。あまりにもその問題の大きさゆえに、日本国憲法の条概念となって日本の独立を侵害している問題性に集中しがちである。そして、そこに貫かれているのが「殺す側の論理」であることを忘れてしまっている。それゆえであろう、「かつて他のアジア諸国に対して『殺す側』に立ち、今また合衆国政権と密着して『殺す側』に立っている自民党」であることも忘れていると言って良い。

 クラウゼヴィッツがずっと以前から言っているように、戦争とは政治の延長であり、また「戦争とは、敵を強制してわれわれの意志を遂行させるために用いられる暴力行為である」[注6]ことは、権威の引用などするまでもなく明白な事実であろう。だが、この単純明快な原理が、とくに日本、地上軍による侵略を受けた経験が沖縄を除いてない日本では、案外理解されていない。ベトナムへのアメリカの出兵・侵略は、第一にアメリカでの政治の内側に原因があり、アイゼンハワーのいうような「貴国の自由」のためではありえない。かくてアメリカの政治体質は、その延長であるところの戦争において、ムキ出しに現れてくる。国内では「殺す側の論理」で作りあげられた法律体系により、形だけでも「合法的」儀式によってこうした汚点が隠蔽されているが、一切の儀式の不必要となる戦場においては、こうしたヴェールはきれいに取り払われ、だれの目にもよく見えるように示してくれる。(『殺す側の論理』、本多勝一著、朝日新聞社、1984年、22)[注6:『戦争論』、クラウゼヴィッツ著、淡徳三郎訳、徳間書店、p18]

 「虚飾にまみれた発言や詭弁」で取り上げた防衛装備品といった言葉の問題も、安保条約や地位協定といった「殺す側の論理」で作りあげられた法律体系も、自らの汚点を隠蔽するツールだったのである。

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