2021年10月5日火曜日

「世界市民」を理想として

 なんという素晴らしい発見だ。少なくとも、私にはそう思えた。人間(個人)の尊厳を、寛容と或いは人間の条件と一体のものとして捉えた人間(個人)の尊厳の発見である。しかも、憲法といった理念とは別に、哲学的な思索の過程で発見したのであろうか。解説がまた素晴らしかった。とにかく素晴らしい。

 モンテーニュが生きた一六世紀のヨーロッパは宗教改革の時代だった。そして世紀後半のフランスは宗教戦争という内乱の時代だった。(中略)ペリゴール人のモンテーニュは、宗教における党派の差を相対的なものとして見ようとする。(中略)たまたま生まれた場所が異なれば、われわれは別の宗派を信じたかもしれないではないか。宗派の差異などは、その程度のものとして考えたらどうだろうかというのである。
 彼にすれば、そのような「差異」は甘受すべきもの、あるいは認めるべきものなのである。
「世間の人は、自分という存在にしたがって、他人に判断をくだすけれど、わたしはこうしたまちがいはしない。他人については、自分とは異なることがずいぶんあるんだなと思ってしまうのだ。自分が、ある型にがちっとはまっていると感じてはいても、だれもがそうするように、それを人々に押しつけることはなくて、異なる生き方がたくさん存在するのだと思って、そのように了解する。世間一般とは反対に、われわれのあいだの類似よりも、差異のほうをすんなり受け入れるのだ」(1-36/37「小カトーについて」)。
 自分の「型」を他者に押しつける、あるいは自分の「型」から他者を判断して、排除に向かうこと。モンテーニュは、人間にありがちなそうした所作をしりぞけて、「差異」を受け入れる。ここで、「人間はだれでも、人間としての存在の完全なかたちを備えている」(3-2「後悔について」)というモンテーニュのことばを、第1章の冒頭で紹介したことを思い出してほしい。
 各人が人間存在として十全なかたちを備えているということは、人間の条件について、その多様性を担保していることになる。人間はさまざまな文化や環境のもとに生を享け、実人生を生きていくが、そのだれもが人間としての十分条件を備えているということだ。ハンディキャップを負っている人も、逆に「文化資本」に恵まれた人もいる。人さまざまなのである。
 そうした多様な「個」が、普遍的な人間存在を支えている。そうであるならば、そのような人間社会に寛容性があることは、当然の結果ということになるであろう。要するに、個の尊重が全体の尊重に、あるいは、モンテーニュ的にいうならば、「わたし」を重視することが、「あなた」を、つまり「他者」を尊重することと表裏一体となっているのである。(モンテーニュ:人生を旅するための7章』、宮下志朗著、岩波新書、2019年、p127〜128)
 また、「人類に共通の普遍的な結びつきを優先して、国民としての結びつきはそれより後におく」(3-9「空しさについて」)を受けて、「モンテーニュは『世界市民』を理想として、人々の共生を願っていたに違いない」(同上、p130)と述べている。素晴らしい!!

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