原田さんが後半に書いているように、「なんら意識せずに、漠然と眺めたとしても」、いいな〜と感動する絵もあるが、そうした絵は、少ない。しかし、画家の伝記などを読んで作家のことを知ると、作品の見方が変わる時がある。絵のこと、画家のことを知ることによって、より絵画鑑賞が楽しめることが、原田さんの一言でよくわかった。
目の前に、一枚の絵がある。
その絵と対峙するとき、いったい、どれほど長く激しい時の流れをかいくぐり、どれほど多くの人々の労力と愛情と支援をもって、その絵が私たちの目の前にやってきたのかと、つくづく思う。
一枚の絵は、あるときには祈りの対象であった。またあるときには欲望の権化であった。そしてまたあるときには、革命であり、マニフェストであり、魂の叫びであった。
私たちは、それらの絵、一枚一枚に向き合って、画家の思い、メッセージ、策略、愛、苦悩を感じ取る。
そしてその絵に癒され、励まされ、奮い立たされ、前を向いて歩き出すために背中を押してもらいもする。
なんら意識せずに、漠然と眺めたとしても、ふいに心の中へ飛び込んでくる絵もある。そういう絵には、観ている人にとって、何か決定的なものがあるのだろう。(原田マハ著、『いちまいの絵 生きているうちに見るべき名画』、集英社新書、2017年、p40〜41)
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| (「どうして隠すんだい | フランシスコ・デ・ゴヤ」より) |
どうして隠すんだ
答えは簡単、金を使うのが嫌だからだ。かりに八十歳になって、あと一ヶ月の命となったところで、その一ヶ月の間にお金に困るようなことになったらと考えると怖くて使えないのだ。実に的はずれなケチの算段。貯め込んだ金を決して手放すまいと必死の形相の老人と、それをからかう人々。服装と帽子から、老人はどうやら聖職者のように見える。そうであれば、敬虔なカトリックの多いスペインで、食べていくには困らないはずだが、王の地位さえ脅かされるような時代(注1)と思えば、不安も高じるのかもしれない。
ケチというのは、どこにもどんな時代にもいるもので、浪費家から見れば美味しいものも食べないでひたすら倹約するというのは信じ難い生き方だろうが、しかし倹約家から見れば、明日のことさえ考えないような連中こそ、とんでもない愚か者に映るだろう。そしてどちらも、そのような生活を続けるうちに、やがてその生き方が身に染みついて、それ以外の生き方ができなくなる。気が付けばいつのまにか、金が人生を支配するようになってしまう。それが金の恐ろしさだが、それにしても、帽子を被って笑う人の表情もまた実に不気味だ。(谷口江里也著『視覚表現史に革命を起こしたフランシスコ・デ・ゴヤの第一版画集 ロス・カプリチョス』、未知社、2016年、p64、注と強調は引用者による)注1:フランス革命の時代、注2:第一版画集を『人間社会の愚かさを描いた版画集』とも書かれていた。

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