今日の朝日新聞に国際政治学者・原彬久さんへのインタビュー記事「安保60年、続く対米依存」が掲載された。この記事を読んで、「60年安保闘争の最も大きな成果は、改憲論を後方へ押しやったこと」だったのではないか、と思いを新たにすることが出来た。なぜか?
岸には、改憲という野望があった。それが、退陣に追いやられて実現しなかった。それまでは、理解していた。しかし、それだけではなかった。岸の「後継の池田勇人首相は『寛容と忍耐』をスローガンに掲げて経済重視に転換し、岸の弟の佐藤栄作首相も改憲論から距離を置きました」(インタビュー記事)とあるように、60年安保闘争後しばらくは、時の首相たちは改憲論を口にすることが出来なかったのだ。安保闘争に噴出した国民のエネルギーを恐れたからに違いない。
以下の写真以外は、インタビュー記事からの抜粋、強調は引用者による
―60年1月の調印時の朝日新聞の世論調査では、条約改定を評価する声が多いのです。
「潮目が変わったのは、岸が日米修好100年の行事として6月にアイゼンハワー米大統領を国賓として招待し、それに間に合うよう条約の国会承認を急いだためです。5月19日深夜、国会内に座り込む社会党議員を警官隊で排除し、自民党単独で国会の会期延長と新条約を衆院で可決しました。国民は強く反発しました。東条内閣の閣僚だった岸の姿がよみがえったのです。安保反対運動は、戦後民主主義擁護、岸内閣打倒の運動へ変わりました」
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内堀通りを埋め尽くして日比谷公園から国会に向かうデモ隊(1960年6月15日)(Wikipediaより) |
――単独採決から約1カ月間のドラマチックな展開は、戦後史で他に例がありません。
「岸は自衛隊の出動も打診しました。しかし、自衛隊は『無理に出動すれば自衛隊の存亡にかかわる』という危機感から抵抗し、出動命令は下されませんでした。決定打は、6月15日に国会内のデモ隊と警察との衝突で、女子学生の樺(かんば)美智子さんが亡くなったことです。岸は、大統領訪日を断念、退陣を決意します」
「岸は内閣の仕事のうち安保改定は『7ないし8くらいに相当する』と回顧していましたから、改定実現にはある程度満足していました」
「しかし、その先に目指していた憲法改正はできなかった。後継の池田勇人首相は『寛容と忍耐』をスローガンに掲げて経済重視に転換し、岸の弟の佐藤栄作首相も改憲論から距離を置きました。岸はそれが不満でした。私のインタビューでは、その後も『ひそかに政権復帰を思ったことは随分あった』と回想していました」
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国会を取り囲んだデモ隊、1960年6月18日。当時国会前庭は まだ整備されていなかった。(Wikipediaより) |


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