茅乃は多聞丸に、「帝(みかど)の守り」をお願いに来ていた。しかし、一度は断るが、298回の、茅乃が多聞丸に多聞丸に食い下がるあたりが圧巻だった。
「今、確かに帝は危うい状況なのだろう。だがそれは廷臣たちが招いた事態であり、彼らの手によって解決すべきことと存じます」
多聞丸は落ち着いた口調で突き放した。故に楠木が巻き込まれる所以(ゆえん)はない。楠木が新たな道を進もうとしている今、関わるべきではないとも考えている。
茅乃はまた項垂(うなだ)れた。重苦しい雰囲気が場に漂う。此度(こたび)のことは聞かなかったことにしてお送りしましょう。そう言い掛けた時、茅乃がか細い声で話し始めた。
「もし……もし、とある百姓が今まさに賊に襲われているとします」
「何の話を……」
「お聞きください」
言い掛ける最中、茅乃は顔をさっと上げた。その瞳は潤んでおり、木窓から差し込んだ夕陽(ゆうひ)がそれを輝かせる。
「ああ、聞こう」
多聞丸は思わず素直に応じた。(298回)
ちょうど、私の疑問に答えてくれる文章「彫刻家はいのちを生む」を見つけた。作家は、彫刻家(芸術家)のように「いのちを生む」ようである。だからこそ、生き生きとした描写となって、素敵な女性(人物)像を描き出してくれているに違いない。
人は意識だけでなく、いわゆる無意識を活発に働かせながら書くからである。さらにいえば、意識が無意識とつながったとき、真の意味で「書く」ことが始まるとすらいえるように思う。(中略)光太郎の彫刻に魅了されるのは、彫刻の形や姿が美しいからだけでなく、そこに生じた不可視ないのちの実在にふれるからなのではないか。彫刻家はいのちを生む。(若松英輔著、「書くとは~高村光太郎と内村鑑三」、日本経済新聞、2023年6月10日)
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