何よりも、「それは、専制的体制によってではなく、民主主義、すなわち多数決にもとづく規制として実行されるものであり」というように民主主義を「多数決にもとづく規制」というように、一面的に捉えているのも問題がある。民主主義とは、民主主義革命と言われることもあるように、もっと内容が豊かであり、市民による絶えざる革新も含まれるし、国民主権、主権者としての自覚も含まれるからだ。だからこそ、民主主義が発展すれば、民主主義の力は、<資本の力=人間の意志をこえた「力」>に必ず勝つ、そう私は信じている。
議会制民主主義を通して、国家の力を制限しつつ、同時に資本主義を制御しようという考えが、一般に行き渡るようになった。これは本来、エンゲルスが「科学的社会主義」を唱えたとき抱いていた見方であるが、のちに、社会民主主義と呼ばれるようになったものである。しかし、このような考えには本来、限界がある。それは、国家や資本主義経済を、人々の自由な意志によって制御できるものであるかのように見なしている。しかし、交換様式の観点からみれば、CやBは、人間の意志をこえた「力」をもつ。民主主義的な国家体制において、人々は、自由になったと考えているが、CやBの「力」に対して、一層屈的になったにすぎない。そして、そのことに気づきもしない。しかも、それが"科学的"な見方だと考えている。『力と交換様式』、柄谷行人著、岩波書店、2022年 p393
エンゲルスがかつて考えたように、Aの限界を一先ずB、すなわち、国家権力によって超えることが「科学」的だとみなされることになる。もちろん、それは、専制的体制によってではなく、民主主義、すなわち多数決にもとづく規制として実行されるものであり、それによってCが抑えられた暁には、Bは不要となって自然に消滅するだろう、と考えられている。しかし、実は、そうはならないのだ。Cは制限されても、Bは残る。また、Aもそこに取り込まれる。具体的にいえば、ネーション=国家が存続する。その結果として、Cもやがて復活する。その結果、資本が存続することになる。(上同、p394〜395)
そこで私は、最後に、一言いっておきたい。今後に、戦争と恐慌、つまり、BとCが必然的にもたらす危機が幾度も生じるだろう。しかし、それゆえにこそ、"Aの高次元での回復"としてのDが必ず到来する、と。(上同、p396)
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