戦争の全体主義がなぜ戦争の終末形式であるか、と言えば、それが「皆殺し」の応酬となることによって、戦争行為における「重要度」の選別判断を無視して了ったからである。指揮官と兵卒、参謀本部と現地軍その他等々の重要性の差異を指標として攻撃目標を絞るよりも、「皆殺し」による「大量処理」が主要な戦争行為になった時、元来の戦争―早晩止めることを前提にした「勝負の力技」はその特質を失って、別の性質のものになって了う。「皆殺し」の世界では将軍だろうと兵卒だろうと等しく殺戮の対象として、ブレヒトの言う「一人は一人、交換可能」なのである。(藤田省三著『全体主義の時代経験』 p17)
何に驚いたか。分かりいただいたかもしれないが、”戦争には終末形式というものがあり、それは全体主義となり、「皆殺しの応酬」となる”という指摘に驚いたのである。この指摘に一定の法則性があるならば、ウクライナにおける破局というものに現実味を帯びてくる。戦況が長引けば、その危険性が増すようにも思える。もっとこの本を研究する必要がありそうだ。なんといっても破局は避けたいからである。
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