誰もにとっても、戦争は嫌だし、無くしたいと思っているだろう。そう思いながらも、ある程度の軍事力は必要だ、備えは必要だ、と思っている人が多いのも事実である。どうして、こうした矛盾が生じているのであろうか。 それは、戦争の根本原因を理解していないからでは無いだろうか。石橋湛山の「軍備の競争は、列国の帝国主義的欲望が已まざる限り、防止するを得ない」という言葉を知って痛感したことである。続けて、「最早軍備は制限の要なく、唯撤廃あるのみである」(『日本平和論体系・6』、家永三郎編、日本図書センター、1993年、p178)と書いている。まさに日本国憲法9条の先取りであろう。
帝国主義とは、資本主義の発展段階のことだから、根は、資本主義と同じである。それゆえ、結局は、資本主義の本質を知らなければならない、ということになる。そこで、手元にあった『「資本論」刊行150年に寄せて』(不破哲三著、日本共産党中央委員会出版局、1017年)を読み始めた。書出しが、”資本主義社会では、「社会的理性」はいつも「祭りが終わってから」はたらく”(『新日本新書版・6』p497〜498)という資本論からの引用から始まっていた。「社会的理性」という言葉を初めて知ったが、この本では、原発問題を例に、「社会的理性」というものを次のように説明していた。
(放射性廃棄物の処理に) どれだけの費用がかかるか、 誰も計算できないでいます。おそらく処理費用を入れると、 原発は経済的どころか、最もコスト高のエネルギーだという結論が出るのではないでしょうか。最も理性的とも言える日本国憲法を無視し、事もあろうに、理性的な部分を取っ払ってしまう改憲を企てている。そうして、コロナ禍でもあるにもかかわらず、「代替イージス、2隻9千億円(陸上の2倍)」といった無駄遣いを平気で計上しようと画策している。こうした動きは、「社会的理性」を失った資本主義の中に、根本的原因を見出せるし、見出さなくてはいけない。そう思った。
ここには「社会的理性」を失った資本主義の無責任さの、最悪の表れがあります。(p17)
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