2020年11月4日水曜日

考えること哲学すること

 時々、本は借りたものの、何でこの本を借りたのかがわからなくなる。『ウィトゲンシュタイン 没後60年、ほんとうに哲学するために KAWADE道の手帖哲学入門』(河出書房新社)も、そうだった。しかし今回は、朝日新聞コラム「折々のことば:鷲田清一」を読んで、この哲学者に興味を持ったからであることを思い出した。検索してみたら、鷲田清一さんは、ウィトゲンシュタインの言葉を二回も紹介していた。改めて読んでみて、鷲田清一さんの言葉や古田さんの言葉から、「考えること」や「哲学すること」がどういうものかを学ぶことができた。それは、画家が大作を何か月もかけて描くように、思考や哲学というのも、じっくりと考え抜くことではないか、と。その過程で、興奮と喜びが得られたら最高だし、逆に、興奮と喜びが得られるような工夫をするべきなのかもしれない。なお、引用分の強調は引用者による。

 今日の哲学教師が、教え子に料理を出すのは、教え子の気に入る味だからではなく、教え子の味覚を変えるためである。(ヴィトゲンシュタイン)
 哲学だけではない。ほんとうの助言、ほんとうの学びは、同じものでもこれまでとは違うふうに見るよう誘うものである。考えるとは、あれこれと思い量ること。見たいものを見たいように見ることではなく、ものと交わり、ものに促されつつおのれの視力を矯正しつづけること。20世紀の哲学者の『反哲学的断章』(丘沢静也訳)から。(2020年10月8日)

 哲学者どうしの挨拶(あいさつ)は、「どうぞ、ごゆっくり」であるべきだろう。(ヴィトゲンシュタイン)
 生き方、世界の見方を変えるには、これまで身につけてきた思考の初期設定を書き換える必要がある。そこでは、急がされずに、滑りのよい言葉に流されずに、ああでもないこうでもないと道筋をじっくり探り、考え抜くタフさが要る。凭(もた)れかかれるものがないままにどこまで立ち続けられるかが試されるのだ。思考はいつもジグザグに進む。『反哲学的断章』(丘沢静也訳)から。(2018年3月10日)

 ここまで紹介してきたどの講義録を読んでも、頭を振り絞り、絶えず黒板に書き込みながら、自身の思考の内容や方法を学生に伝えようと苦心する一人の教師の姿を、われれそこにすぐに見て取ることができるだろう。そして、極度の集中を要求するそうした思考の現場に置かれた学生たちに、幾分は同情の眼差しを、そして、それをはるかに上回る羨望の気持ちを向けることだろう。そこには、重く張りつめた空気以上に、哲学することそれ自体の興奮と喜びが満ちているからである。(古田徹也著「講義録」『ウィトゲンシュタイン 没後60年、ほんとうに哲学するために KAWADE道の手帖哲学入門』(河出書房新社、p120)

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